僕は常々、廃墟には興味がないと言っている。じゃあ今日の写真は何だ、これは廃墟ではないのか、そう思われた方もいるはずだ。これはセンシティブな問題で、少々面倒な説明をしなければならない。率直に言えば、僕は廃墟の建物自体が嫌いなわけではない。時の洗礼を受けた建物や構造物を「廃墟、廃墟」と喜び、無神経にそこに足を踏み入れる、そういう輩が嫌いなのだ。ここでいう「踏み入れる」は、物理的な侵入よりもむしろ精神的な領域を指している。多くの時間と様々な事情、それが絡み合って成された現状の姿。そこに想いを馳せる想像力もなく、廃れているという事実だけで単純に面白がる。あまつさえ無神経にその姿を晒していく。そういう姿勢が嫌いなのである。僕のなかでは撮るべきものと、そうではないもの、その区別が存在する。
そこで今回の建物となる。これは町のよろず屋だった店の跡である。祖父母が同じ形態の店を営んでいたこともあり、僕はこういう店に人並み以上のシンパシーを持っている。店番だって何度もした。近所のお爺さん、お婆さん、学生たち、更にはサラリーマン、そして観光客。老若男女様々な人が店を訪れた。パンを買いにきたり、醤油を買いにきたり、ジュースやタバコ。様々なものを買いにきた。この店も同様だったと思う。そこにあることが当たり前で、定休日以外は休みなく開いていた店が、ある日を境に廃業した。その経緯は分からない。でも店が営業を辞めたとき、多くの人々の胸に決して小さくはない「さざ波」を立てたことだろう。その日を境に人生の一部分が変わった人だっているかもしれない。そこに想いが至れば、真摯に建物と対峙するのは当たり前である。僕は長井に来れば必ずこの建物の写真を撮る。僕はこれが廃墟写真であるとは微塵も思わない。この店をイメージ通りに撮るには、どうすべきなのか。いつも真剣に向き合って、建物と対話しながら撮影している。やっとその片鱗を見せてくれたことを嬉しく思っている。何故熱くなったのか自分でも不明だが、説教臭くてすいません。
X-PRO3 / XF23mm F2R WR
そうですよね、そこにある当たり前が
無くなるとある種のショックを受けます。
深い思慮とその存在に自らの共感出来るゆえの思いがでるのですね。
廃業は何ゆえに起こるのか・・
鉄道もしかり、利用せずに廃線話が出ると
慌てていますよね。経営が成り立たたない
と切り捨てます。当たり前です。
常に当たり前もメンテナンス作業が必要と思います。
日本人は保全が苦手な民族なのでしょうか?
深入りすみませんでした。
ありがとうございました。
その時間の凝縮が感じられる写真です
長井は 学生時代のノリ鉄で ただ通過した駅 添乗員では2度ほど あやめ園にご案内
何れも観光バス利用でしたので 街の面影の記憶がありません
写真で 時間を感じます
今はつっかえ棒がないと建っていられない・・でも大震災も乗り越えた力強い姿ですね。
素敵な写真と熱い文章、とてもいいです。
>日本人は保全が苦手な民族なのでしょうか?
仰る通りだと思い、考えを巡らせました。石造りや煉瓦作りのヨーロッパでは、数百年オーバーの建造物も当たり前ですよね。
日本は木造家屋の文化なので、スクラップ&ビルドなのかなと思います。それは悪いことばかりではなく、長所でもあるのかもしれません。
でも法隆寺のような一級建築物は補修を重ねて姿を留めるのに、一般建築の扱いは寂しいと思います。
自分と同時代に残る「人の匂い」が残る建造物(そして付帯する記憶)に敬意を持った写真を撮りたいと思います。
当時の姿はどうだったのか、想像力が働きます。この店も現役バリバリだったかもしれませんね。
長井駅はこじんまりとした素敵な古い駅でしたが、近代的で大きな駅になりました。市役所庁舎と一体化した駅です。
産業、観光振興には利点だと思いますが、少し寂しい感じもしました。町並みは多分40〜50年前とあまり変わらないと思います。
いまの時代のモダンな店も、何十年か経つと同様に見えるかもしれませんね。令和レトロとか言って・・・。
追伸:意味不明に熱くなって失礼しました。
僕も同様に想像を楽しんでいます。
会ったこともない店主を思い浮かべ、いまは還暦を超えた当時買い物に来た子供たちを思いう浮かべています。