私の成人式(ライフプラン)日記、絵を描き45年!
誕生日に思う! 光陰矢のごとし、、、
私は、群馬県新田郡世良田村の世良田小学1年の時、正月の「お餅つきの絵」を描いた絵が金賞なる。親や家族にほめられ絵が好きになったようです。従って、小学時代・中学時代を通して教科のなかでいちばん絵(図画工作)好きでした。兄弟は、男6人みな身体は恵まれていた。(兄弟は、水泳 野球 柔道 マラソン駅伝 バスケットなど)私は、中学時代のクラブ活動が野球部(新田郡大会等駅伝の選手)でした。
寺泊港より弥彦山(新潟) F15 (2010.10.2)洋画部写生会
終戦直後、6人兄弟を含め10人家族のため貧乏な生活でした。とうてい、高校入学など困難な我家の経済状態でした。しかし、私の家の隣(親は、早大卒)の中学野球部同級生I君が太田高校に受験とのことでした。私は、母親に何度も高校受験を頼みました。やっと、中学3年の10月頃にわたしの願いが親に受け入れられた。(もちろん、高校を卒業し就職の道だった。)幸い、群馬県立伊勢崎高校に入学できた(授業料、月謝600円ほど)。野球部など経済的にも無理(柔道部入部)。クラスは1年3組だった。(きっと、最後の成績で合格だったかも知れません。クラス50人の教室)
<お誕生日のケーキ>(2010.10.28)
小学時代は、継ぎあての学生服、高校に入学しても小学・中学時代と同じで新しい教科書は無かった。もちろん辞書、参考書など買ってもらえませんでした。
境町に住む先輩のTさんから借りた教科書だった。(小学時代は、兄の使った教科書、いつも教室で改訂版前の古い教科書を読み笑われた。)
しかし、高校2年・3年になるにつれ向学心に目覚め勉強が大好きになりました。自分のような人がきっといるのではと思い大学に入り「教員」になる事を目標になりました。(貧乏な生活の事は、考えていたが大学いきたい、、、)
その後、高校3年間の担任だった岡田実先生(英語)にお願いして日本育英会より奨学金を借りて東京の大学で学ぶことができました。在学中、教職課程を履修(卒業後、聴講生を1年して他資格修得)。そして、どうしても「美術教師」の勉強をと考え武蔵野美術短期大学に入り教員の資格へ動いた、、、。大学卒業時、二科会の斎藤三郎先生に将来を相談したところ「絵描きになりたいなら、教員でないほうが自分の絵を描くことができる」とのことでした。
海の詩 F4 パステル 町田譽曽彦
二科展に初入選し、はじめて斎藤三郎の自宅でお会いし話したときの印象は「私とおなじくらい絵を描くことが好きな先生」でした。その後20年余り指導アドバイスを頂き感謝感激です。(斎藤先生は、東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し)
私は、20才の誕生日に人生の生き方を考え決めていました。「人生は限りがあり、いろんな事をやりたいが時間的に無理、そこで好きな絵を生涯描いていくことに、、、エネルギー集中」又、当時の日記に、生涯1回だけでも東京・銀座の一流の画廊とデパートで個展開催する事がわたしの夢だった。
そんな夢のライフプランを暗示してくれたのが大学時代「教育哲学」で学んだ実存哲学者「カールヤスパース」実存哲学でした。人生は一度だけ、出会った人に最善を尽くし悔いの無い人生を送ることがたいせつ、、、親孝行したい時に親がなしにならないように、現在の「在りのままの姿で親に接する」ことを説いています。
私は、成人式を浦和市で向かえた。なぜか、埼玉県庁に呼ばれ大学生・サラリーマン・個人商店の代表3人の一人となり県庁に行きました。(成人式を迎えた3人の喜びの声、、、「ラジオ放送」)
過去を思えば、1967年(22才)で公募展・埼玉県展初入選し、1972年に池袋画廊、サエグサ画廊個展。そして、1979年から東京・三越の美術ギャラリー(画廊)で10年連続の個展が出来たのは夢のようです。「自分の信念」に家族の応援が無ければ実現できません。妻に感謝と健康に感謝(親)です。これから、70才までボランテアを兼ねて各所の団体・洋画研究所(カルチャーセンター)で後進の絵画アドバイスを行って行きたいと考えています。
しかし、70才になったら改めて「自分の絵だけに専念」して人生を過ごして行きたいと考えています。
<誕生日に描いたコスモス>水彩 F5(2010.10.28)
一般に、 人間70才になると①体力の衰え②認知症になりやすい③愚痴を言いたくなる④肩書きで生きようとする⑤プライドは制作によくない⑥依頼心が強くなるなど見られてくるので気をつけて生きていきたいと思っています。
「人間の人生は有限であり、わずか80才です。」あまり他人さまのことは気にせず好きな絵を描き、他人に迷惑をかけないようにと思っています。
これからわずか10年の人生、毎日まいにちを大切に好きな絵を描き生きて行きたいです。
(アルベルト譽)
斎藤三郎先生 <年 譜>
? 1917年-埼玉県熊谷市に生まれる。
? 1937年-内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
? 1940年-東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数の
デッサンを描く。
? 1946年-第31回二科展に初入選。
? 1948年-第33回二科展にて「敗戦の自画像」が特待賞受賞。
? 1949年-サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
? 1950年-「信仰の女」で第35回二科展二科賞受賞。
? 1954年-二科会会員推挙。
? 1961年-第46回二科展にてパリ賞を受賞。
? 1972年-渡欧。第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。
二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
? 1974年-渡欧、おもにスペインに滞在する。
? 1975年-渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。
二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
? 1996年-埼玉県浦和市元町にて死去。享年78歳。
誕生日に思う! 光陰矢のごとし、、、
私は、群馬県新田郡世良田村の世良田小学1年の時、正月の「お餅つきの絵」を描いた絵が金賞なる。親や家族にほめられ絵が好きになったようです。従って、小学時代・中学時代を通して教科のなかでいちばん絵(図画工作)好きでした。兄弟は、男6人みな身体は恵まれていた。(兄弟は、水泳 野球 柔道 マラソン駅伝 バスケットなど)私は、中学時代のクラブ活動が野球部(新田郡大会等駅伝の選手)でした。
寺泊港より弥彦山(新潟) F15 (2010.10.2)洋画部写生会
終戦直後、6人兄弟を含め10人家族のため貧乏な生活でした。とうてい、高校入学など困難な我家の経済状態でした。しかし、私の家の隣(親は、早大卒)の中学野球部同級生I君が太田高校に受験とのことでした。私は、母親に何度も高校受験を頼みました。やっと、中学3年の10月頃にわたしの願いが親に受け入れられた。(もちろん、高校を卒業し就職の道だった。)幸い、群馬県立伊勢崎高校に入学できた(授業料、月謝600円ほど)。野球部など経済的にも無理(柔道部入部)。クラスは1年3組だった。(きっと、最後の成績で合格だったかも知れません。クラス50人の教室)
<お誕生日のケーキ>(2010.10.28)
小学時代は、継ぎあての学生服、高校に入学しても小学・中学時代と同じで新しい教科書は無かった。もちろん辞書、参考書など買ってもらえませんでした。
境町に住む先輩のTさんから借りた教科書だった。(小学時代は、兄の使った教科書、いつも教室で改訂版前の古い教科書を読み笑われた。)
しかし、高校2年・3年になるにつれ向学心に目覚め勉強が大好きになりました。自分のような人がきっといるのではと思い大学に入り「教員」になる事を目標になりました。(貧乏な生活の事は、考えていたが大学いきたい、、、)
その後、高校3年間の担任だった岡田実先生(英語)にお願いして日本育英会より奨学金を借りて東京の大学で学ぶことができました。在学中、教職課程を履修(卒業後、聴講生を1年して他資格修得)。そして、どうしても「美術教師」の勉強をと考え武蔵野美術短期大学に入り教員の資格へ動いた、、、。大学卒業時、二科会の斎藤三郎先生に将来を相談したところ「絵描きになりたいなら、教員でないほうが自分の絵を描くことができる」とのことでした。
海の詩 F4 パステル 町田譽曽彦
二科展に初入選し、はじめて斎藤三郎の自宅でお会いし話したときの印象は「私とおなじくらい絵を描くことが好きな先生」でした。その後20年余り指導アドバイスを頂き感謝感激です。(斎藤先生は、東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し)
私は、20才の誕生日に人生の生き方を考え決めていました。「人生は限りがあり、いろんな事をやりたいが時間的に無理、そこで好きな絵を生涯描いていくことに、、、エネルギー集中」又、当時の日記に、生涯1回だけでも東京・銀座の一流の画廊とデパートで個展開催する事がわたしの夢だった。
そんな夢のライフプランを暗示してくれたのが大学時代「教育哲学」で学んだ実存哲学者「カールヤスパース」実存哲学でした。人生は一度だけ、出会った人に最善を尽くし悔いの無い人生を送ることがたいせつ、、、親孝行したい時に親がなしにならないように、現在の「在りのままの姿で親に接する」ことを説いています。
私は、成人式を浦和市で向かえた。なぜか、埼玉県庁に呼ばれ大学生・サラリーマン・個人商店の代表3人の一人となり県庁に行きました。(成人式を迎えた3人の喜びの声、、、「ラジオ放送」)
過去を思えば、1967年(22才)で公募展・埼玉県展初入選し、1972年に池袋画廊、サエグサ画廊個展。そして、1979年から東京・三越の美術ギャラリー(画廊)で10年連続の個展が出来たのは夢のようです。「自分の信念」に家族の応援が無ければ実現できません。妻に感謝と健康に感謝(親)です。これから、70才までボランテアを兼ねて各所の団体・洋画研究所(カルチャーセンター)で後進の絵画アドバイスを行って行きたいと考えています。
しかし、70才になったら改めて「自分の絵だけに専念」して人生を過ごして行きたいと考えています。
<誕生日に描いたコスモス>水彩 F5(2010.10.28)
一般に、 人間70才になると①体力の衰え②認知症になりやすい③愚痴を言いたくなる④肩書きで生きようとする⑤プライドは制作によくない⑥依頼心が強くなるなど見られてくるので気をつけて生きていきたいと思っています。
「人間の人生は有限であり、わずか80才です。」あまり他人さまのことは気にせず好きな絵を描き、他人に迷惑をかけないようにと思っています。
これからわずか10年の人生、毎日まいにちを大切に好きな絵を描き生きて行きたいです。
(アルベルト譽)
斎藤三郎先生 <年 譜>
? 1917年-埼玉県熊谷市に生まれる。
? 1937年-内務省に勤務するかたわら、東京物理学校(現東京理科大学)に学ぶ。
? 1940年-東京物理学校を中退して出征。戦地で画家になることを決意し、多数の
デッサンを描く。
? 1946年-第31回二科展に初入選。
? 1948年-第33回二科展にて「敗戦の自画像」が特待賞受賞。
? 1949年-サロン・ド・プランタンに出品。第3回美術団体連合展に出品。
? 1950年-「信仰の女」で第35回二科展二科賞受賞。
? 1954年-二科会会員推挙。
? 1961年-第46回二科展にてパリ賞を受賞。
? 1972年-渡欧。第57回二科展に出品、内閣総理大臣賞を受賞。埼玉県文化賞受賞。
二科会委員となる、またこの頃からスペインの人物を描き始める。
? 1974年-渡欧、おもにスペインに滞在する。
? 1975年-渡欧、おもにスペイン、イタリア、ベルギーに滞在。
二科展(エジプト政府主催、カイロ国立ファイン・アート・ギャラリー)に出品。
? 1996年-埼玉県浦和市元町にて死去。享年78歳。