「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「高僧名僧伝・親鸞」アマゾン・グーグル・楽天・角川。電子書籍紹介。

2020-06-23 05:25:35 | 投稿済C

「高僧名僧伝・親鸞」アマゾン電子書籍紹介。
親鸞(1173~1262)鎌倉時代の僧。浄土真宗の開祖。はじめは綽空と名乗る。房号は善信。1876年(明治9)見真の大師諡号を与えらえれた。日野氏に生まれ。9歳の春、慈円の坊舎で得度し、範宴少納言と称したという。比叡山では常行三昧堂の堂僧を務めていたが、29歳の時自ら進路を見失い、「後世を祈る」ため、山を下り京都六角堂にて百日の参籠を試み、聖徳太子の夢告を得て、法然の門下に入り、専修念仏の道を歩むことになる。33歳には法然より『選択本願念仏集』の書写と肖像画の制作は許されるが、35歳の1207年(建永2)法然門下の密通事件に端を発する念仏弾圧(建永の法難)によって越後国に流された。この時愚禿を姓として、非僧非俗を自ら信条とする。5年後赦免されるが、京都には帰らず、1214年(建保2)頃から関東に移る。法然が死去したことと、門弟たちの群会を禁じたその遺徳守るためであった。ただ関東が選ばれた理由については諸説があって定説を見ない者の、近年は科の善光寺の勧進念仏聖一行に加わって行動する見解が有力となりつつある。関東では主として常陸国稲田を拠点都市、約20年間に渡って各地を遍歴し、念仏聖として教化伝道を行った。その結果多くの門弟が生まれた。南北朝期の史料「親鸞聖人門侶交名牒」によると、指導者格の直弟は下野、常陸、下野、武蔵などに49名を数え、それに帰依した民衆は数万賭される。彼らは地域ごとに集団を形成したので、その地名を冠して間に「教行信証」著し、思想体系の樹立に努めている。単なる勧進目がるといえよう。1234年(文暦元)~1235年(嘉禎元)頃関東を離れ京都に帰っているが、その理由については詳らかでない。京都では五条西洞院に住み、「教行信証」の推敲改定や和讃の制作など著作活動が中心だったと考えらえる。関東の門弟たちに対して書写聖教や書状を送って教化の継続を図っている。所が80歳に入ったころ自分の名代として関東に派遣した滋信房善鸞が異議を言いふらし、古い門弟らが鎌倉幕府に提訴するという事件が持ち上がり、関東教団は大きく動揺した。これを知った親鸞は、1256年(建長8)5月29日付け善鸞に縁を切る旨の書状を送り、これを門弟らにも周知させ動揺を鎮静化させた。その前後から住居を実弟に尋有僧都の三条富小路の坊舎に移し、1262年(弘長2)11月28日死去した。年齢90歳。奇瑞も何もない平静な最期だったという。




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