「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン電子電子書籍紹介。

2019-10-30 06:40:35 | 温故知新
「天狗党の乱・幕末に舞う」アマゾン電子電子書籍紹介。
「幕末末期の元治元年(1864)水戸藩尊攘激派による筑波山挙兵とその後の騒乱事件。「天狗」とは、新参軽格の士が多い天保改革派にたいして反改革派が用いた蔑称で、譜代門閥の者には鼻高々の成り上がり者に映ったのだろう。一方、改革派は反改革派を「好物」と呼んだ。天狗党の主流は安政期頃から尊攘派として活動。安政5年(1858)前藩主徳川斉昭らの謹慎処分撤回を求める運動を展開したが、翌年戊午の密勅の取り扱いに巡って過激派と慎重派に分裂し。過激は天狗党につながり、鎮派の大方は弘道館書生や門閥派と結合し反天狗の諸生党を結び、両党は熾烈な武力闘争を生み出した。激派から桜田門外の変の関係者が出ている。1864年3月藤田小四郎、竹内百太郎、新治郡安食村の豪農で郷士らは各地の郷校に駐屯する同志を誘い、町奉行田丸稲之衛門を首領にして攘夷を旗印に筑波山に挙兵し、挙兵時は数百人に過ぎなかったが、各地から有志が参集し、一時1000人余りになった。天狗党は北関東を各地を横行し、追討軍と緒戦は優勢であった。だが次第に皇太子、藩内事情に起因する諸生党との抗争に縮小していった。10月那珂湊の戦いに敗れた一党は、元家老の武田耕雲斉を総裁にして、京都にいる一橋慶喜を頼り朝廷に真意を伝えるべく西上。一党は、下野、上野、信濃、飛騨の各地で追討軍と戦いながら、進んだが12月20日越前新保で加賀藩823人が降伏。翌年2月には敦賀で耕雲斉・小四郎ら352人が斬られ、そのほかも遠島、追放などに処せられた。しかしその後も両党の抗争は終わらず、明治元年1868年の弘道館の戦いに諸生党が実質的に滅びるまで続いた。






「京都所司代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。 京都所司代は所司の代官の意味で、室町幕府の侍所、所司をさす。所司の被官がこれを務めた。室町以降になると

2019-10-30 05:50:01 | 温故知新
「京都所司代の歳時記」アマゾン電子電子書籍紹介。
京都所司代は所司の代官の意味で、室町幕府の侍所、所司をさす。所司の被官がこれを務めた。室町以降になると、所司代がさらにその家人を小所司代に任命し、雑事を務めさせるようになる。室町時代の侍所は京中の検断・断罪を掌握としており、所司代は小舎人・雑色らを指揮して将軍外出の警護、犯罪人の逮捕などにあたった。京極持清の下で同役を務めた多賀高忠や、赤松政則の下で活躍した浦上政則の下で活躍した。応仁文明の乱後は、所司補任が断絶するとととに同代官として所司代も廃絶したが、戦国時代以降、時々の権力者は京都を実質的に支配する要職に所司代の名を用いた。



「応仁の乱の群像」アマゾン電子電子書籍紹介。 応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守

2019-10-30 05:47:09 | 温故知新
「応仁の乱の群像」アマゾン電子電子書籍紹介。
応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守護らが細川勝元と山名持豊(宗全)を領軸にして東西両軍に分かれ、京都を中心舞台にして戦った大乱。
原因は土一揆、徳政一揆に代表される庶民の成長・台頭が荘園制や守護国制の基盤を揺るがす大事件「嘉吉の乱」で矛盾を露呈し幕府権力の弱体化が、将軍足利義政の下でさらに進み、政治も混乱の度を越えたこと、長禄・寛正の飢饉が起こり、社会不安が広がったこと、などを背景に上げらえる。乱の直後原因は、将軍家や畠山氏・斯波氏などの有力守護家に家督争いが起こり、幕府の実権を争う勝元と宗全がそれぞれを支援して、二大派閥が形成されたことにある。畠山氏では享徳3年(1454)畠山持国の後継者畠山義就に反発する被官らが持国の甥弥三郎を擁立、勝元も弥三郎・政長を支持した。義就は寛正元年(1460)政長はじめ幕府軍の追討受け、足掛け4年間河内嶽山城に籠城した。この嶽山合戦が、応仁・文明の乱の前哨戦となった。斯波氏では、義建の死後一族の斯波義敏が継いだが守護代と対立して失脚、宗全が画策して渋川義鎮の子斯波義康が後を継ぎ、義敏は勝元を頼った。将軍義政が定見もなく守護監督の安堵と追放を繰り返したことで守護家の家督争いは一層抜き差しならないものとなり、細川・山名領派閥の形成と対立の深刻化を助長することとなった。一方、将軍義政にははじめ男子がいなく、弟足利義視を後継者と定めた。しかし1465年義政室日野富子の足利義尚が生まれ、その庇護を宗全に託した。1467年正月に宗全の支援を受けた畠山義就が赦免され、勝元方に管領畠山政長は失脚、斯波、司馬義康が慣例に任じられた。政長は京都上御霊神社で義就と戦ったものの退却し、上御霊神社の戦いが、大乱の導火線となった。緒戦に敗れた勝元は、山名方の領国でゲリラ活動に出て行動を開始、ついに細川一族の成之・常有・勝久、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長らの軍勢を京都に集めた。これに対抗して山名側も、一族の勝豊、畠山義就、六角義直、管領の斯波義康、畠山義統、六角高頼、土岐成頼、一色義直、管領の斯波義康、畠山義就らが集結した。そして5月26日、細川方から山名方を攻撃して、大乱の幕が切って落とされた。細川方は室町第(花の御所)と細川邸を本営として、山名方はその西側の堀川を隔てた山名邸を本営とされた。細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれた。東軍の兵力は16万1500余名、西軍方は大内軍を加えて11万6000余名の戦力で約10年間、京都を荒廃させ不毛な戦いが繰り広げられた。