「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『天明飢餓の鎮魂』アマゾン電子書籍紹介

2019-10-16 05:29:18 | 温故知新
『天明飢餓の鎮魂』アマゾン電子書籍紹介
天明年間の飢餓は悲惨で過酷なものであった。
ここ信州地方の、この川上村にも決して無縁ではなかった。
天候不順に加え、浅間山大噴火が、田畑に灰が降って耕地を荒廃させた。
その年も日照り続きで、百姓は空を見上げては、ため息ばかりつく日々が続いた。
天候の不順に、幕府の田沼意次の失政で、追い打ちをかけるように被害を増大させた。
幕藩体制の確立ととともに新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。
しかし行き過ぎた開発は人手不足に招き、強引に治水した河川が耕作地に接近しすぎたために、洪水を頻繁に発生させ、米の生産を低下させた。
さらに田沼意次の重商主義政策が打ち出され「年貢増微策」転換され、稲作に行き過ぎた奨励、食の備蓄米の払い底し、江戸への廻米に向けるなど失政が重なった。
さらに貧困から抜け出すために江戸などの都会に向かって農民の流失に歯止めがきかず、均衡が取れなかった。
また田沼政治の金融政策の失政で米市場の機能しない状態が混乱に拍車をかけた。
 農民の不満は生死をかけて、一揆が勃発し、打壊しを、もって対抗手段に出た。

『宇都宮城の釣天井事件』アマゾン電子書籍紹介

2019-10-16 05:26:59 | 温故知新
『宇都宮城の釣天井事件』アマゾン電子書籍紹介
本多正信・正純は徳川幕府創設期に幕臣として貢献し、絶大な信頼を得て、栄誉栄華を手にし、幕閣の中枢として、辣腕を振るったが、創設にこれと言った功績のままに立身出世を成し遂げ、周りの大名の不手際には容赦なく制裁と罰を将軍家の意向で裁可してきた。正純は父正信、将軍家康が亡くなって後ろ盾を失い、日頃より反目する者の恨み妬みが「宇都宮城釣天井事件」の謀略が仕込まれて、失脚し惨めな最期を迎えることになった。二代将軍秀忠でさえ疎ましく思っていた。

「伊達一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-10-16 05:24:29 | 温故知新

「伊達一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
「伊達氏」(だてし/いだてし)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山蔭流と称する。伊予国・但馬国・駿河国などに庶流家がある。出自は魚名流藤原山蔭の子孫と称し、藤原家が統治していた常陸国伊佐郡や下野国中村荘において伊佐や中村と名乗り、鎌倉時代に源頼朝より伊達郡の地を与えられ伊達を名乗ったとされている。
ただし、伊達氏の出自が藤原北家であるというのはあくまで自称に過ぎないとする説もある。また「桓武平氏常陸大掾平維幹(平繁盛の子)の子為賢の末」説を挙げている。さらに下毛野氏とする説も提唱されている。
また、常陸入道念西と伊達朝宗は別人であるという説もあり、新井白石は元禄15年(1702)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子・宗村であるとしている。
初代・朝宗以降、ほとんどの歴代当主が「宗」(むね)の通字を使用する。ただし、江戸時代に伊達綱村(仙台藩第4代藩主)が父・綱宗と同名になるのを避け、第2代・宗村に由来する「村」(むら)の字を使用してから、第8代藩主斉村までの間、「村」が通字となった。
伊達朝宗~伊達政宗(9代)~伊達稙宗~伊達晴宗~伊達輝宗~伊達政宗(17代)~伊達成実~伊達綱宗~伊達宗勝~伊達吉村~伊達宗紀~伊達宗城~伊達慶邦~伊達邦直~伊達邦成~伊達順之助。
戦国大名伊達稙宗から有力大名らと婚姻を結び、陸奥国守護となり、晴宗は奥州探題となり領土拡大していったが、嫡子晴宗と対立し、七年間にわたる「伊達氏天文の乱」を起こし一時衰退したが、輝宗が徐々に再興し
ていった。何より伊達氏を居並ぶ大名の中で吐出して勢力拡大に寄与したのは、政宗の安土桃山時代である。天正12年(1584)に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めて、会津の蘆名氏や奥州探題・大崎氏と戦い、天正17年(1589)には蘆名氏を摺上原の戦いで破り、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大(114万石)となった。しかしこれは関白・豊臣秀吉が発した惣無事令に背くものであったため、天正18年(1590)に政宗が秀吉が服属した後の奥州仕置では会津・河沼・耶麻・岩瀬・安積などを没収され、伊達氏旧領(置賜・伊達・信夫など)および田村郡72万石のみを安堵され、米沢城に戻る。さらに、同年に起きた葛西大崎一揆を政宗が煽動していたことが露見したため、翌天正19年(1591)の一揆鎮圧後に国替を命じられ、旧葛西・大崎領13郡を与えるかわりに置賜や伊達郡など旧領6郡を没収されて、米沢72万石から岩手沢58万石に減封された。
政宗は岩手沢城の縄張りや改修修築を行ない、岩出山城(現:宮城県大崎市岩出山)と改名し居城とした。それでも石高で豊臣一門(猶子)の宇喜多と小早川をしのぎ、徳川(255万石)・上杉(120万石)・毛利(112万石)・前田(80万石余)・島津(61万石)に次ぐ大大名になった。。