「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

『修験道の神仏』アマゾン電子書籍紹介

2019-10-13 05:56:16 | 温故知新
『修験道の神仏』アマゾン電子書籍紹介。
仏教伝来以来、日本古来の古神道との仏教の目立った争いは無かった。当初、官寺としての仏教による鎮護国家の色彩が強かったので、神仏の競うことはなかった。
 そんな中で人里離れた山岳に神秘的支配に求める人々に古神道の神々と、仏教の密教的諸仏が融合して、独自な神仏習合の「修験道」が誕生していった。
その代表的山岳信仰の先駆者こそ「役小角」で近畿地方から九州から、四国、中国と方から東北地方まで影響され伝播されていった。九州は善正、白山は泰澄、日光は勝道、東北は能登が未開の峰々を切り開き聖地・霊地の聖域を広めていった。近畿地方の役行者を心棒する修験者は真言系と天台系に凌ぎを削り、大峰山から熊野三山まで朝野の別なく、神仏習合の権現として崇敬されていった。伊勢神宮、出雲大社、大神神社に仏教では禅宗系、日蓮宗系、浄土宗系以外は神仏混在で諸国に広まって行った。ところが、明治の神仏分離令以降、廃仏運動で分離され、仏教は被害を受けて衰退していった。中でも修験道は往時に比べて、各地に細々伝承されて行っている状態である。改めて、修験道の歩んだ歴史を振り返って見たのである。



『秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。

2019-10-13 05:53:28 | 温故知新
秀吉・紀州征伐の攻略』アマゾン電子書籍紹介。
 戦国の乱世、紀州、和泉、河内の国々は国主・頭目等の治安維持を守り切れず、三好一族や松永久秀などの戦国大名の台頭によって紀州などの僻地に追いやられ、宗教集団の根来衆や寺社勢力の総国が勢力が台頭し、紀伊半島に雑賀衆や泉南地域の一向宗や紀州半島の奥地の熊野などに独自の集団を作りあげた。また湯河一族なども独自の自治国を作りあげた。
 信長と秀吉は三好一族などの一掃したあと紀州征伐に取り掛かったが、信長は本能寺で横死、秀吉が紀州征伐に根来寺、粉河寺、高野山など雑賀衆・根来衆の鉄砲に武装化した集団で天下統一の目前に向かって来た。根来寺、粉河寺は秀吉軍の18000人兵士に大炎上し灰塵と化した。 高野山は攻撃前に降伏し、武装解除し秀吉軍に帰順の意を表し高野山の焼討は免れた。
 岸和田城を中心に戦いが繰り広げられ大坂襲撃、和泉の戦、千石堀攻撃は大規模で熾烈を極めた。太田城の水攻めは長時間んを要し秀吉軍10万の兵力を持って陥落させた。その後は紀伊半島の奥地の紀伊国一揆など地侍反乱で鎮圧で南紀攻略を持って紀州征伐に収束を見た。
「保科氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
中世から近世の武家。平安末期に信濃国高井郡保科に発祥。養和元年(1181)横田河原の合戦で、保科権八が越後平氏方に、保科太郎が源義仲方に属した。その後、御家人になり、承久の乱に活躍した。中先代の乱では北条時行方の大将として船山守護所を攻撃した。室町時代には高井郡河田に保科長光・長経・信光、伊那郡藤沢に高遠諏訪継宗の代官として保科家親・貞親らが活躍。高遠諏訪氏が武田信玄に滅ぼされると、武田家臣だった保科正俊・正直らが台頭、徳川家康の下で大名化し、下総多古に移った。正光の代に高遠藩主となり将軍秀忠の子幸松を養育した。正之は出羽20万石から会津藩主となり、正直の三男正貞は上総飯野藩主になった。京都守護職就任し保科氏から「松平容〇」の改姓をするが、自身は保科氏として振る舞い、幕政の要職を求められる大名に変化していった。その見返りに優遇されたが、幕末には長州征伐に動員される。

『秀次切腹事件』アマゾン電子書籍紹介。

2019-10-13 05:51:10 | 温故知新
『秀次切腹事件』アマゾン電子書籍紹介。
豊臣秀次は、秀吉の甥である、若くして人質同様に養継子に送られ、武士として一人前になって秀吉引取られた。秀吉に継子が居なかったために、秀長、秀次は重用された。秀吉は継子を諦めたかのように、秀次を関白の位を譲り、ゆるみと驕りの素行の見受けられ世間の冷ややかな評価の最中、秀吉に待望の秀頼が誕生した。秀次の事態は急変、謀反の疑いが巷に広まった。秀吉に弁明をするが、高野に行くこと命じられ、警護は解かれて、賜死を命じられ、家臣共々切腹を強いられた。事は家臣だけではなく、一族眷属、老若なんよ死罪、遺体は四条河原に掘られた溝に打ち捨てられて、秀次は晒し首にされた。非情な秀吉の仕打ちには多くの謎が秘められて、秀吉の晩成を汚す大きな出来事であった。