「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。 仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。

2019-10-29 05:39:15 | 温故知新
「鳩摩羅什と玄奘」アマゾン電子電子書籍紹介。
仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。鳩摩羅什は西暦344~413年に西域のクチャ亀茲(きじ)国出身の大翻訳し僧。サンスクリット名クマーラジーバ「くまらじゅ」ともいう。羅什と略称されることもある。生没年は通説に従えば前期の通り350~409年という新設もある。いづれにせよ4世紀から5世紀初頭にかけて活躍した天才的学僧である。鳩摩羅什の西域における名声は中国に及んでいたので,前奏王苻堅は382年(建元18年)クチャ国を攻略倉中を虜にした。十数年間涼洲に滞在した後に、401年後秦の都長安に迎えられた。後奏王佻興は国師として迎えられ、西明閣および逍遥園で訳経に従事させた。長安における鳩摩羅什の訳経と興和は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。彼が翻訳した主な経論は『大品般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』『維摩経』『阿弥陀経』など大乗仏教仏典「大智度論」『中論』『百論』『十二門論』『成実論』など戒律文献がある。中でも特に力を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握とその宣揚であった。中国仏教の龍樹系の中観思想を始めて紹介し、インド大乗仏教の正系と直結させたのは鳩摩羅什とその門下生であった。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗仏教義章』には彼の国家によって手厚く保護された鳩摩羅什の仏教学の腐敗の兆しがなかった訳でもない。鳩摩羅什は自ら泥中に蓮華に喩、華のみを取って泥の濁りに染まるなど事を諫めた。鳩摩羅什の門下生は三千人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、道生、道融は四哲として有名であった。三論、成実、天台などの中国の諸宗がのちに開かれる基礎が鳩摩羅什一門によって準備等、用意されていた。鳩摩羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、訳経史上に旧訳時代という一時期を期したと言える。
一方、大翻訳僧は玄奘(602~664)中国、唐代の仏教学者、大旅行家、俊て著名な、法相宗開創の祖。本名は禕。俗名陳氏。三蔵法師の名で知られる。洛州で602年(仁寿2年)ただし600年説もの有る。父慧の四男として誕生。幼くして敏、つねに古典を親しんでいた兄長捷につき、の洛陽の浄土寺に住し、614年(大行10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿鄭善果にその才能を認められて出家。以降も浄土寺に留まり、景法師に厳法師にその才能を認められ師から『涅槃経』や『摂大乗論』を学ぶ。618年(武徳1年)兄に勧められて、洛陽から長安に移り、荘厳寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄と共に蜀に向かい成都に至る。622年具足戒を受けてのち、各地の高僧を訪ね、翌年再び長安に戻り、大覚寺に住して道岳法師より『具舎論』を学び、624年、法常と僧弁の『摂大乗論』の講演に列し、両氏から大威にその将来を嘱望されたが、この頃より国内における仏教研究に限界を感じ、諸宗の疑問の解明のためにインドに留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることが出来なかったが、627年秋8月意を決して密かに長安を出発し、天山南麓を経由して、


「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。 幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し

2019-10-29 05:36:42 | 温故知新
「新選組の佐幕の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。
幕末・維新期に佐幕浪士隊。新選組とも書く、幕府は浪士取り締まりに武芸上達の者を取りたてて浪士組を編成し、文久3年(1863)2月、将軍徳川家茂の警護を名目として上洛させた。その際の指導者清河八郎(幕末末期の攘夷運動家。本名は斎藤元司。出羽国田川郡清川村の豪農の、名主斎藤治兵衛の長男。弘化4年(1847)江戸に出て古学の東条一堂に入門。嘉永4年(1851)北辰一刀流の千葉周作に入門し、神田美川町で文芸塾を開き、近藤らと出会い、新選組に合流することになるが、考えが違った)清河八郎は国事掛に出入りし攘夷実行すべきとめざし動き始めたため、同年3月に江戸に呼び戻された。この時、京都に残留した芹沢、近藤勇・土方歳三らは、京都守護職松平容保の支配下に属し、京都近郊の壬生村に屯所を置いて新選組と名乗った。将軍身辺の警固から京都治安維持にあたり、尊王攘夷派志士の弾圧に努め、壬生浪人として恐れられた。無謀は行いが多かった初代局長芹沢鴨を斬殺したのち、新選組の実権は局長近藤勇、副長土方歳三らが握った。元治元年(1864)6月、池田屋事件、7月の蛤門の変における活動を頂点とし、その後も尊王攘夷派浪士を取り締まりにあたる。慶応4年(1868)正月鳥羽伏見の戦いには幕府軍に加わって敗れ、江戸に帰る。同年3月改めて近藤勇は甲陽鎮撫隊を編成し、甲斐国勝沼まで出兵して官軍と抗戦するが敗退、ここで実質的解隊に追い込まれる。その後近藤は下総流山で捕らえられる。、江戸板橋で処刑され、土方は翌年に箱館五稜郭で戦死した。



「天誅組の攘夷の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。 文久3年(1863)に尊王攘夷派の激派が大和に挙兵した事件。天誅組とも書く。大和五条の変ともいう。18

2019-10-29 05:34:12 | 温故知新
「天誅組の攘夷の大義」アマゾン電子電子書籍紹介。
文久3年(1863)に尊王攘夷派の激派が大和に挙兵した事件。天誅組とも書く。大和五条の変ともいう。1863年は尊攘派が京都朝廷を制し、8月に孝明天皇の大和行幸が決定した。これを契機に、尊攘派の激派、土佐の吉村虎太郎、元刈谷藩士、松本奎堂、備前の藤本鉄石らは天誅組を結成し、中山忠能の七男の中山忠光を擁して8月14日に大和に挙兵し、河内の庄屋らも参加した。幕府の五条代官所を襲撃して、代官ら殺害し、同町に本陣を置き、五条を朝廷領とし年貢半減を布告した。しかし、八月十八日の政変により尊攘派が京都から追放され、大和行幸が取りやめになった。天誅組は十津川郷士1000余人に糾合し、8月26日高取城を攻撃した。ここで高取藩兵に敗れ、十津川郷士も離反したため、吉野から河内へ脱出を図った。途中の大和国吉野郡鷲口で彦根・津・和歌山の諸藩に敗北し9月25日に壊滅した。藤本・松本・吉村らは戦死し、中山ら7名が長州藩大坂藩邸に逃げた。