「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-10-09 06:07:01 | 温故知新
「蜂須賀氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。
「蜂須賀氏」(はちすかうじ)安土桃山時代から江戸時代の大名。出自は、尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)を領した土豪武士。蜂須賀小六正勝が桶狭間(おけはざま)の戦いに織田信長を助けたときから頭角を現し、豊臣秀吉をもよく助け、1  天正9年(1581)に播州龍野に封じられて大名となり、嫡子家政の子蜂須賀至鎮が慶長5年(1600)徳川家康の養女を娶って家督を相続。関ケ原の戦いに家政は西軍に与したが出陣せず、至鎮が東軍に属し、本領を保った。1600年に阿波国一円を知行された。さらに家政の嫡子至鎮が元和1年(1615)に淡路を加増されたことによって、徳島藩25余万石の大大名に列せられた。その後は忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕を経て、茂韶のとき(1869年)版籍を奉還することによって、270年続いた蜂須賀氏の阿淡両国支配に終止符が打たれた。

「南部氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-10-09 06:04:33 | 温故知新
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平安末期以来の武家。甲斐国巨摩郡南部郷を名字の地とした清和源氏加賀美遠光三男の南部光行を始祖とする。鎌倉期には、御家人として陸奥、但馬その他各地に所領を与えられ、また得宗御内人となった一族もいた。甲斐南部は室町期まで確認できるが、著名なのは、日本最北、最大の郡であり駿馬の産地として知られている陸奥国糖部郡に依存した奥州南部氏である。一戸から九戸まで郡内区画を各々名字とし、南北朝には八戸、室町・戦国期には三戸の南部信直は豊臣秀吉から糖部、岩手、鹿角、閉伊、斯波、久慈、遠野の七郡を安堵、さらに稗貫、和賀の二群を加えられ、近世の盛岡藩・八戸藩・七戸藩の祖となった。

「小山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。

2019-10-09 06:02:00 | 温故知新
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平安後期から戦国期の武家。秀郷流藤原氏。太田行政の子政光が下野国都賀郡小山郷(現栃木県小山氏)を本拠としたのに始まる。源頼朝の挙兵に従い、鎌倉幕府の創設にも長沼、結城等の庶子家と共に活躍、有力御家人として下野守護職を相伝した。南北朝期には朝氏(南郷が南方に与したが、以降は概ね足利方に属した。しかし永徳2年(1382)宇都宮基綱を攻め殺した罪で鎌倉公方足利氏満の討伐を受け小山義政は敗死。嫡男小山若犬丸も応永4年(1397)※小山犬若丸・南北朝の武将、小山義政の子。悪四郎、隆政とも称し、義政の乱で父が糟尾山中で自害した後、陸奥三春城田村祇園上で挙兵した。鎌倉公方足利氏満が自ら出陣すると、犬若丸は祇園城を捨てて逃亡し、各地で氏満軍に抵抗を続けたが応永4年奥州会津で自害した。その後小山氏は結城基光の子泰朝を持って小山氏を養子を含めて三度の再興させた。以後も名家として勢力を振るった。享徳の乱では古河公方を支えた。天正3年(1575)小田原北条氏に敗れて配下になり、小田原征伐の後北条氏と共に滅びた。