編者のつぶやき

川田文学.comの管理者によるブログ。文学、映画を中心に日常をランダムに綴っていく雑文

選択肢

2006年06月15日 | Weblog

 満員電車はつらい。少々体力があったころは、満員の電車の中でも常に本を開いていたものだが、最近はそれができなくなった。
 私が上京した10数年前、電車の乗客のほとんどは、本を開いていた。都会の人は読書家なんだなぁ、と思ったものだ。

 今はその半数以上が、携帯に取って代わった。考えてみれば、携帯電話は、満員電車というつらい空間から逃避するには非常に適したものかもしれない。携帯は本より小さく、本ほど集中力を要さない。筆者という会ったこともない(死んでいるかもしれない)友ではなく、リアルタイムに生きている”生”の友や家族とコミュニケーションができる。音楽も聴ける。ネットでニュースも観れる。漫画まで読めちゃう。ゲームもできる。すごいおもちゃを発明したものだ。写真まで撮れる。株まで買える。スイカの機能も、クレジットカード機能も付けられる。
 株やクレジット、までくると、おもちゃの一言では片付けられないかもしれない。怖いくらいだ。携帯という塊にお金をかければかけるほど、いろいろなことができる仕組みになっている。しかし、金といっても、ほんの10数年前に比べれば安いものだ。すこし前までは、携帯は金持ちしか持てなかった。しかも通話しかできなかった。
 家に帰れば、テレビがある。スイッチ一つで面白い番組、ためになる番組、シリアスなドラマ、アホな番組がタダで見られる。過酷な現実から、しばし逃避できる。しかし、このテレビもほんの40年ほど前は、高価なもので、金持ちしか購入できなかった。
 そして、本も、印刷技術がまだ発達してなかったころ、グーテンベルクの42行聖書が15世紀だから、500年くらい前を考えると、一般の人にとって、本は、お目にかかれないくらい貴重だった。本一冊に何千エーカーもの土地が買えるくらいの価値が付けられていたというし、鎖つきの本なんかもあったそうだ。今では、子供のおこづかいでも買える。

 現代を生きるわれわれは、幸か、不幸か、自分が死ぬまでの時間を潰すための娯楽は大抵手にできるようになった。
 どんなに望んでも手にできないもの、過去の先人たちと同じように限られているもの、それは時間だ。自分が与えられた時間の中で、自分が何をすべきか、したいのか、それを選択しなくてはならない。