編者のつぶやき

川田文学.comの管理者によるブログ。文学、映画を中心に日常をランダムに綴っていく雑文

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週言から箴言へ

2006年11月11日 | Weblog
 川田先生から、「週言」を「箴言」に変更してくれないか。という依頼を受けた。やさしく、無難に書こうとして骨が折れるというのだ。というのは、HP作成者であるわたしが、なるべく差しさわりのない軽い文章をと、お願いしていたからだ。あれあを読んだ人は分かると思うが、先生の評論は、非常に辛辣なものが多い。
 先生の作品を読んでいない人に、本を買ってほしいという下心もあった。しかし、残念なことに本はこのページからわずかしか売れない。つまりは、週言フリークは、これから購入する人たちではなくて、もう先生の作品をいくつか読んでいる川田ファンじゃないか、と思い始めた。
 わたしは、先生に謝罪し「先生が好きなことを思いっきり書いてください。」と言った。言論の自由というものが、憲法にも謳われているではないか。言論の自由は、芸能人や政治家のプライベート記事を載せる出版者だけのものではないはずだ。
 辛辣なことばや断定的表現は、最近とみに嫌われるようになった。以前、憲法学者の長谷部先生の評論をもとに、「はじめに」に書いたことがあるが、「小説の精神」のことばを借りれば、「至高の「審判者」不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿をあらわし、神の唯一の「真理」はおびただしい数の相対的真理を共有することになった。」からだ。
 情報化社会のなかで、視野を広くしながら、あらゆることを知識として取り入れながら、個々人の真理はどこへ向かうのか。皮肉なことに、政治を、経済を、社会を、歴史を、学習すればするほど、人々の心はよく言えば『寛容』になり、悪く言えば怠惰になる。「まあ、いいじゃないか。そういったって、こういう場合は、こうなりうるし、ああいう場合は、ああなりうる。人にはそれぞれ事情があって、一概にはそうは言えない。つまり、それが真理だよ。」という具合だ。言われた相手は、ぐうの音も出ない。知識不足をなじられる。
 両者の間に信頼関係はない。これまた皮肉なことに、相対的真理を謳う「寛容」であるはずの人間が、目の前に居る、絶対的真理を表現しようとする生身の相手の意を汲もうとする「寛容さ」がなくなる。実に不思議だ。
 辛辣な言葉は、真理へ近づこうとする心意気。先生の作品を愛してくれる人だけ、箴言を読んでくれればいい。