編者のつぶやき

川田文学.comの管理者によるブログ。文学、映画を中心に日常をランダムに綴っていく雑文

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性悪説か性善説か

2005年11月18日 | Weblog
 西鶴の「好色五代女」をモチーフに川田訳で出された11月17日の週言は、実に面白い。わたしは、人間の本質をシニカルに表現した文章が好きだ。人間の本性は悪なのか、善なのか。私の中で日々いろいろな状況で変わる。しかし、このような文が好きだということは、きっと性悪説に傾いているのだろう。
 ちょうどいま読んでいたトルストイの「幼年時代」のなかに、そんなシニカルな文章を見つけたばかりだ。第10章「父の人となり」というところだ。少し長いが、引用してみよう。

『父はどんな人のつきあいでも上に立つすべを心得ていた。他人を傷つけることなく、自己の世評を高めるような、プライドと自負心のぎりぎりの限度をわきまえていた。きわめて個性的な人物だったが、常にそれで通すわけでもなく、場合によっては社交性や富に代わる手段として、個性を発揮していた。この世のどんなものも父の心に驚きの感情をよびおこすことはなく、どんな華やかな立場に身をおいても、父はまるでそのために生まれてきたように見えた。こまごまとした怒りや悲しみにみちた世間周知の暗い人生の半面を彼はじつにみごとに他人から隠し、自分から遠ざけるすべを知っていた。・・・・・・父の性質は、善行をするのに観客を必要とするような類いのものだった。そして、観客がよいと見なすものだけを、父もよいと見なすのである。』
                           
 こういう文章を読むとわたしはなぜか胸がときめく。トルストイは、19世紀を代表する、言わずと知れた大文豪家だが、西鶴は、1600年代の人なので、その200年前、現代から換算すれば、350年以上前にトルストイと引けを取らない文章を好色物といわれるジャンルで書いている。場所や時代は変わっても人間の本質は変わらないということか。

しかし・・・

 「あれあ」のどこの段だったか忘れたが、「人は話し下手で、遠慮をして自分のことを話すので、話半分で人を判断してはいけない。人は大げさにはものを話さない。それどころが、その半分も話してはいないのだ」という趣旨の文章を川田氏は書いていた。
 性悪説は、非常に魅力的ではある。しかしそんな見方に酔ってしまって、つねに冷めた目線で見ていては、世間の泥に埋もれるダイヤモンドもただの石ころにしか見えなくなってしまう、という戒めのことばだろう。
 川田氏の作品は一見、ひどくシニカルにも見える。しかし、「あれあ」に綴られた文章に垣間見られるように、人間信頼の強さからくる絶望や人間恐怖というものが、作品群の根底に流れているように思えてならない。川田文学の本質。それは、もしかしたら、性善説的人間信頼かもしれない。