生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

Maynard Smith & Szathma'ry 1999、生命の二重の本性[訳出]

2016年07月21日 17時46分51秒 | 生命論
2016年7月21日-1
Maynard Smith & Szathma'ry 1999、生命の二重の本性[訳出]

 以下は、
2016年07月20日 17時46分06秒 | 生命論
の続きの、しかし3節あまりほど飛ばした、〈第1章 生命と情報〉

第1章 生命と情報
 〔0〕 〔まえがき〕 p.1
 〔1〕 生命とは何か? What is life? p.3
 〔2〕 自己触媒 Autocatalysis p.6
 〔3〕 制限された遺伝と無制限の遺伝 Limited and unlimited heredity p.7
 〔4〕 情報と生命 Information and life p.9 
 〔5〕 生命の二重の本性 The dual nature of life p.11-13

の〈第5節 生命の二重の本性〉の、ほとんど全部の訳文である。


  「
生命の二重の〔双対的〕本性 The dual nature of life [p.11]

 生命を定義するのに、二つのやり方があると前に述べた。つまり、一つは、生きている生物体〔有機体〕の複雑な構造と、かつ、とりわけ、生存と繁殖を確実にするように適応した器官を持つこと、によるものである。二つ目は、自然淘汰による進化に必要な諸性質、特に遺伝といった性質を持つこと、によるものである。これからわれわれは、これらの二つの接近の総合を試みなければならない。アリストテリスは、生命は二重の本性を持つと明言した。すなわち、材料 material は卵によって供給され、配列する力 formatting force (_entelecheia_)は精子によって供給されるのだと。〔But まで略〕生命の二つの側面、代謝的側面と情報的側面、を強調した点では、彼は正しかった。〔略〕
 ルネ デカルトは、生きものたち living beings は機械たち machines であり、そのように理解できると主張した。この概念は17世紀に特徴的であった。それは、生物学の偉大な勝利の一つによって例証されている。すなわち、心臓
によって駆動される血液循環の仕組み〔機構 mechanism〕というウイリアム ハーヴェイによる発見である。今日のすべての生化学者と分子生物学者は、「機械学的〔力学的〕唯物論者 mechanical materialist」である。しかし、彼らが研究する機械たちは、デカルトが想像した機械たちとは異なっている。哲学者で数学者のゴットフリート ライプニッツ Gottfried Leibniz が最初に指摘したように、自然の(または「聖なる divine 」)機械は無限に分割可能である。生きている有機体〔生物体〕を分析すると、微小な機械(代謝サイクル、酵素)から構成されていることがわかる。一方、蒸気エンジン〔機関、発動機〕は、部品を持つが、このような微小機械から構成されてはいない
   〔注記。→微小機械で構成することはできる。すると、問題となる区別は、それが金属とかプラスティックではなくて、蛋白質や核酸などから成るということか(マーナ & ブーンゲは、そう主張する。つまり、'wet' materials から構成されること、したがってそれら生体分子間で働く力の種類が異なっていること、あるいはそれらから創発〔わたしは、下位システムからの統御的上位システムの創発など、信じない。〕すること、が本質または本質的である、と。→この問題は、制御またはいわゆる下方「因果」 downward causation(→制約または束縛というよりは、統御)の問題になる。bottom-upではなく、逆に、生命または霊が、物質を創ったと想定するほうが、無矛盾的だろう。)?。細胞内で、蛋白体たちは、他の構造物の表面を、「歩いている」。むろん、その機構はあると想定するのが、探求である。〕

 ライプニッツが気づいた人工物と生きている機械との間のもう一つの違いは、生きている機械にはつねに或る_エンテレケイア entelecheia_があるということである。この駆動力の本性については、さらに特定されることは無かったが、それがシステムになんらかの制御 some control を行使していることは、彼には明瞭だった。それからはるか後で、物理学者のアーウィン シュレディンガー は、著名な本の『生命とは何か? What is life?』(1944)で、生命のこの側面を強調した。その本には、有名な所見 remark が 含まれている。遺伝子、つまり遺伝的材料〔遺伝物質〕の情報運搬の単位は、「非周期的結晶」でなければならない、という言葉である。遺伝的材料〔遺伝物質〕は、安定で比較的〔相対的に〕不活性 inert な結晶に似ているに違いないが、また「非周期的」でもなければならない。いくつかの異なる種類の単位から成っていて、塩の結晶のような一種類の単位だけから成るのではない、という意味である。その理由とは、同一の単位の糸〔紐 string〕、たとえば AAAAA、は情報を運べないが、相違する単位の糸は運べることなのである。しかしシュレディンガーはまた、生きている有機体は、_機能 function_ しなければならないことも知っていた。今日のわれわれは、生きているシステムは、物質とエネルギーの連続的な流入が無いことには、その活動的状態を維持できないと言うことで、生命のこの側面を表現しよう。
 当代の数理物理学者のフリーマン ダイソンは、『生命の起源 Origins fo life』(1985)と題した小冊子のなかで、シュレディンガーが提起した諸問題を再訪した。生命には二つのものが必要だと彼が認めたのは、自己を維持する代謝システムと遺伝物質である。遺伝物質に集中しても、生命の起源についてたいした洞察は得られないと、彼は考えた。代わりに、代謝システムに集中すべきだと忠告したのである。しかし、自己維持とは何を意味するのだろうか?。生きているシステムは、連続的な変化のなかにいる。そして、変化の或るものは低下へと導く(それが生化学者たちが合成物〔化合物〕 compounds を冷凍庫にしまっておく理由である)。したがって、システムがそれ自身を維持するのならば、それ自身の材料 material を過剰生産できなければならない。それが、代謝システムが自己触媒的でなければならない理由である。すなわち、自己触媒は自己維持に必要であり、ましてや成長と繁殖に必要なのである。
 これらの考えのいくつかは、Tibor Ga'ntiが前に表明していたことである。彼は、理論生物学者となった、ハンガリーの化学工学者である。早くも1966年までに、生命は二つの下位システム、恒常的代謝システムと「主要サイクル〔循環〕」の、から成ると主張した。後者で彼が意味したのは、情報的制御 informational control である。1971年に出版された『生命の原理 The principle of life』〔principlesではなかったっけ?。本が手元に無い→要確認。〕において、彼は「ケモトン chemoton」を記述した。それは、生命のすべての特徴を示す、最小の化学システムのための基本設計 basic design である。単純化し過ぎれば、ケモトンは、一つの自己触媒的化学サイクル〔循環〕と一つの情報的分子(一つの袋に含まれ、そうしてこのシステムの構成要素たちは溶液中に流れ去ることができない)から構成される。この見解によれば、ウイルスは、生きていない。
  〔→ウイルスが生きていないことになるのなら、ケモトンの定義または模型〔モデル〕は、役立たずということである。諸力の再定義が必要である。〕
計算機〔コンピュータ〕科学からの類推〔アナロジー〕を使うと、ウイルスたちは計算機に、彼らをできるだけ多くの複製物たちを、たとえその過程で計算機が破壊されることになっても、印刷出力するように指令するプログラム〔計画〕
   〔計画。→計算機では、動作手順記憶であって、指令という作動を行なうのはプログラムではない。最終的に動かしているのは、エネルギーと人とそのように人が設計した構造体である(機械をもとにする類推論、あるいはマシンを模型とする論は、機械が人工物であること、人が創造したという点の説明をしないという共通の欠点がある。この指摘については、白上謙一(1972/1)の本『生物学と方法 発生細胞学とはなにか』を見よ。)。→厳密な類推、つまり論理の同型性を適用すべきである。マーナ & ブーンゲ『生物哲学の基礎』による批判的指摘を参照せよ。〕
のようなものである。計算機に相当するのは、ウイルスではなく、細胞である。生きものは、計算機に似ているのであって、単なるプログラムではない。もっとも、計算機は下位システムとしてそれ自身のプログラムを持っている。
  〔マーナ & ブーンゲ『生物哲学の基礎』も、同様の理由で、つまり作動するシステム全体ではないとう理由で、ウイルスは生命体ではないというが、ならば、ふつうわれわれが生きていると認めている寄生生物体も、また共生生物体も片割れだけでは、生きていないことになる。実際、共生生物体の片割れは、生きているシステムではないとしていたはず(要引用頁)。〕
 Ga'ntiはまた、生命の基準は何かも議論している。彼の基準という意味は、生命にとって本質的な、経験的に決定される特徴のことである。地球上のすべての生きものに見られるであろう、けれども偶然的あろう或る特徴に、異議を唱える人もいるだろう。たとえば、地球上のすべての有機体が明るい青である場合はあり得たことである。どうやったら、青であることが生命に必要なのか、あるいは偶然なのかどうかを知ることができるのだろうか?。生命の定義への経験的接近は、したがって、或る偶然的な形質を本質的なことだと受け入れるだろう恐れがある。これは、あまり心配するべきことではない。すべての自然科学は、経験的基礎を持っている。したがって、新しいデータ〔資料〕が発見されるときは、修正を受けるのである。
 Ga'ntiは、そこで、生命の基準を定義するのを決定〔同定〕するにあたって経験的接近を採用した。彼は、二つの型の基準を区別した。すなわち、「絶対的」と「潜在的」である。絶対的基準で彼が意味したのは、すべての生きものたち living things に不可欠的に〔必然的に〕存在する necessarily present 基準である。潜在的基準は、すべての生きものたちには必ずしも存在しない not necessarily present が、有機体たちが繁殖して進化するためには必要な、基準である(「潜在的 potential」よりも「増強する potentiating」という用語のほうが、区別をより良く表現するだろう)。たとえば、騾馬たちは生きているが、繁殖できない。繁殖する〔生殖する reproduce〕という能力は、したがって、潜在的ではあるが、生命の絶対的基準ではない。Ga'ntiの論証の詳細に立ち入ることは無くても、大変早くに、彼が代謝と情報制御が必要であることを認識したことは、感銘を与える。われわれは、進化に興味があるので、そして個体群たちの生存だけに興味があるわけではないので、潜在的基準、とりわけ増殖と遺伝に集中することにしよう。
」[零試訳20160721]
(Maynard Smith & Szathma'ry 1999: 11-13)。



評言(零)a critical comment by the Zero
 なんのことはない。生命または生きている状態をきちんと定義することを放棄している。非生命体が代謝することがあると言っておきながら、結局、代謝を基準として採用している。(この本も、系統汚染〔堕落〕 phylogeny pollution に陥っているわけだ。)
 また、生きている状態をもたらす機構 mechanism を(理論的および経験的に)解明しようとするわけでもない。
 進化過程(進化機構ではない)が生じるのは、先に生命体たちが起源してからのことである。最初の(地球外であれ)生命体が生じたという認定は、或る物体システムが生きているという状態となったときである。
 生命の本質を論じるには、生きているという状態のシステムについて、そしてその機構についての考察が必要である。
 代謝がまったくなくても、たとえば凍結状態の卵子や精子とか、乾燥状態のクマムシとか、或る条件下で、復活すれば、その間も生き続けていると見なさざるを得ないのではないか?。
 否、それともやはり、それらの活動停止の状態とは、それらは死んでいる状態だったのか?。
 ナザレのイエスの肉体は、失血によって?活動停止しただろう、つまり死んだ。キリストがイエスの死んだ(腐敗まではしていなかったのか?)肉体を(イオン化のエネルギーによって)復活させたとすれば、その前は個体水準としては死んでいる状態にあったことになる。う〜む。もっとよく考えなくては。
 個体水準での統御エネルギーは、(エーテル水準の)生命エネルギーを統御するエネルギーまたは力ということになるのか?。
 いずれにしろ、形相を各生物体の物質体(個別の卵子や精子、また受精卵から成体まで)に実装する力は、各々の種システムだとしておこう。物体への実装 implimentation という概念も、分析と定式化が必要である。

 なお、渡辺慧は、なんらかのことまたはものが、情報となるには、たとえば遺伝暗号といった情報通信には、受信者と発信者がいて、さらに情報となるように相互の解読システムの取り決めが成立していなければならない、と指摘している。
 DNAという種類は不活性物質であり、したがってDNAという物体は不活性な物体であることは、マーナ & ブーンゲ(2008/7)が強調するところである。蛋白体合成システムおよびその制御システム(それは、蛋白体合成システムの制御階層として上位システムになる)として捉え、またその機構を考えなければならない。
 情報を制御しているという捉え方は、抽象的である。具体的な信号の種類と程度を、制御システムとして同定しなければならない。


□ 文献 □
Ga'nti, T. 2003. The Principles of Life. xviii+201pp. Oxford University Press. [B20080418, y16,171]

Mahner, M. & Bunge, M.[マーナ,マルティーン & ブーンゲ,マリオ]1997, 2000(小野山敬一 訳 2008/7/26).生物哲学の基礎.xxi+556pp.シュプリンガー・ジャパン.[本体13,000円+税][ISBN9784431100256][R20080720][既知の半分ほどの訂正が行なわれた本(第2刷)が、版権が移行された丸善出版から、2012/9/30にシュプリンガー・ジャパン株式会社の編集として、発行された。 ISBN9784621063552。本体13,000円+税。]

Maynard Smith, John & Szathma'ry, Eo"rs. 1999. The Origins of Life: From the Birth of Life to the Origin of Langauge. (vii)+180pp. Oxford University Press. [RfA20??]