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発出論、流出説

2013年02月22日 15時00分33秒 | システム学の基礎
2013年2月22日-1
発出論、流出説/芸術美と自然美

 『新版 哲学・論理用語辞典』の64頁によれば、「エマナティオ」とは、「古代哲学における用語」で、「《流出》または《発出》と訳される」とある。
 そして、「世界には万物の根元となる神的な一つのモノ(「一者」「神」などとよばれる)があ」り、「この《一つのモノ》が変化、ながれ出て万物ができ上った。したがって万物はこの《一つのモノ》の部分であり、かつ、その《一つのモノ》の性(質)をうけついでいる、と。こうした〈《万物の根元》が万物に《変化する過程》〉をエマナティオとよぶ。〔この考え方を発出論[emanatism]といい、新プラトン主義(プロティノス、プロクロス)やグノーシス派にみられる〕→一者  (O)」と記述している。

 三省堂の『大辞林』によれば、「流出説」とは、
  「〔哲〕〔(ラテン) emanatio〕神から種々の存在者が段階的に展開されて、現実の世界ができ上がるとする形而上学説。新プラトン主義やグノーシス派の宇宙論などにおいて説かれる。発出論。エマナチオ。」
http://www.weblio.jp/content/流出説

 ここでは、「段階的な展開によって現実の世界ができ上がる」と説明している。
 「万物はこの《一つのモノ》の部分」での、部分とはどういう意味なのか? 或る者(または物)Aが変化して、(同定または区別できる)或る物Bが出来たとするとき、BはAの部分だと言える条件は何なのか?

 Goo辞書での流出説」は、
  「哲学で、最高存在たる神から万物が段階的に流出し、しだいに低いもの、不完全なものに至るとする形而上学説。新プラトン学派やグノーシス派の宇宙論などにみられる。発出論。エマナチオ。」
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/232004/m3u/発出論/

 ウィペディアでの「流出説」は、
  「流出説(りゅうしゅつせつ、英語:Emanationism)は、ネオプラトニズム(新プラトン主義)のプロティノスが唱えた神秘思想。
 完全なる一者(ト・ヘン)から段階を経て世界が流出して生み出されたとする思想。高次で純粋な世界より、低次で物質的な混濁に満ちた世界へと流出は進み、最終的にこの世界が形成されたとする。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/流出説
 ウィキペディアの「プロティノス」の「2.2 美学」の項に、芸術美と自然美の区別の話が書かれている。
  「美が感知されるのは何か精神を引き付けるものが存するからで、すなわち精神と同質のロゴスが存しなければ物は美しくない。したがって美の根源はロゴスの明るさの中心として光に譬喩される神であり、超越美 to hyperkalon である一者としての神を頂点として、以下、ヌース、諸徳のイデア、諸存在者の形相、質料、という美の序列が成立する。この構想はプラトン的であり、その証明法はプラトンのようにミュトスによらず美的経験の分析による。この考えによれば芸術美を自然美と原理的に区別し得ないが、芸術は自然的事物を摸倣してはならず、自然美を成立させる原理を摸倣しなければならない。すなわち芸術家にとっては精神の直観力によってロゴスとしてのイデアの全体像を把握するのが先決問題である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/プロティノス#.E7.BE.8E.E5.AD.A6


  「「存在」を単に「存在」――「ある」――として抽象して了う代りに、形相を有つこと(イデア)として理解するこの典型的な観念論にとって、では物質(又は質料)とはどういうものであったか*。
* 観念という言葉は決して古典的なものではない、イデアは必ずしも観念――この意識主観――を意味しない。観念論は元来イデア主義のことであるべきで、必ずしも観念主義のことではない。だから理想主義ともなるのである。

 質料(物質)の概念は云うまでもなく形相(形式)の概念に対立する。で、形相が存在ならば、質料(物質)は無でなければならないわけである。エレア学派で問題にされた虚無がプラトンのイデア論の具体化という課題に際して、「プラトンの質料」となったのである。形相(存在)をそのまま受け取り受け容れる無が、アリストテレスによればプラトンの質料(物質)なのである。だが無が本当に無ならばパルメニデスの云う通り、そもそも問題にされ得ないもので、無の概念が必要な場合は、実は所謂有(存在)という概念では有(存在)自身が片づかないことが意識された時に限る。プラトンの質料(物質)も、所謂存在(形相)の概念では片づけ切れないような、それ程迄に圧倒的な盛り盛りした存在が想定されねばならなかったればこそ、必要になる概念だったのである。そう解釈するのがプラトンの無(物質)の最も正しい又最も新しい見解であるようである。
 そこでこうなる。存在は本当は形相(形式)としては把握出来ない、それは寧ろ、より高度の概念によって、質料(物質)の概念によって、把握される他はない。質料(物質)は無どころではない、それこそ本当の充ち溢れた存在だ、ということになる(アリストテレスは質料をば可能性という、形相よりももっと低度の、併し矢張り一つの存在と考えた。質料は可能的なものではなくて却って現実的なものでなければならないだろうに)。
 この古典的考察は、なぜ存在が他のものではなくて正に物質(質料)でなければならないかを、典型的に示すだろうと思う。物質ということは、存在物・存在者・の性格であって他の何物でもない、がそれは存在物・存在者・そのものではなくても、とに角そのようなものが存在する・ある・ということである。物質というものがあると云うより先に、あるということが取りも直さず物質ということだと云うべきなのである。
 それは質料に就いて云えることではあっても、物質に就いて云えることではないと人々が云うなら、彼等は物質を単に例の物理学的範疇と考えているのである。哲学的範疇としての物質は、質料という概念に於て、その最も典型的な古典的抽象形態を有っている、それが哲学の歴史の教える処に他ならぬ。

 併し質料(物質)を無と考えねばならなかった古典の必然性には、重大な意味がある。存在は本当の存在(物質)であることによって、単なる存在(形相)ではあり得ないということを、それは証明している。その意味で、存在は単なる存在ではなくて、却って無から根ざしていなくてはならぬ。無から出て来る――そういう云い方を許すとして――のでなければ存在は存在にならぬ。一口で云って了えば、無と存在との統一こそ、本当の存在なのである。物質とは無と存在との統一としての真の存在である。この点が大切だ。」

 
[し]
思想の科学研究会(編).1995.4.哲学・論理用語辞典.408pp.三一書房.[B950907、3090円]

[と]
戸坂潤.現代唯物論講話.[初出:「現代唯物論講話」白揚社、1936(昭和11)年12月]
http://www.aozora.gr.jp/cards/000281/card3598.html