生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

意識としてのわたしの同一性

2011年01月01日 23時05分55秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月1日-2
意識としてのわたしの同一性

 例のデカルトの、<私>が存在するという論証について。

                    「「この現実」と言っ
  ても、そんなものはないかもしれない」。「いま」、「ここ」と
  言っても、まったく間違っているのかもしれない。それでも
  なお、ひとつ絶対に確かなことがある。それは、事態がどう
  なっていようと、また私が何であろうと、私があるところ、
  そこが現実である、ということだ。これが「私はある、私は
  存在する」の意味である。
                   (上野修 2010.10 :5)


 <わたし>が、だれだかなにだかどこだかいつだかわからないが、出発点を<わたし>に取れば、そう主張することはできる。しかし、その主張が妥当かどうかは、わからない。
 わたしをわたしと思っているのは、なんらかの意識だとしよう。また、意識とは、つねになんらかについての意識であると仮定する。(すると、夢見のない睡眠状態のときは、どうなるのか?)

 夢のなかで、わたしは夢のなかで自分が活動しているのを疑いもなく現実だと思っている。夢から覚めて初めて、わたしの意識?が夢のなかであった(あるいは夢見の世界にわたしという意識の焦点が合わされていた? するとそのときの意識はどこに存在していたのか?)とわかる。
 夢から覚めたと思っても、それはまだ夢のなかだったという場合もある。
 夢における<わたし1>と、覚醒して「ああ夢だったのか」と思う<わたし2>は、同一なのか? 意識の連続性も錯覚であるかも。しかしまた錯覚かどうか、どうやって確かめるのか。他の人に確かめてもらうのが、一番である。脳波と眼球運動と脳血流の測定器をつけることにする。

 おそらく、視覚的な夢の場合、急速眼球運動が見られれば、まずは夢を見ている。被試験者を起こせば、夢を見ていたと言うからである。ただし、これも<今>ではなく、さきほどの夢見状態(「状態」と言えるのかどうかはさておき)におけるなんらかの経験についての記憶である。記憶内容を語っているであって、現在経験している状態にいるのではない。そしてその記憶は、大部分は歪んでいるだろう。
 覚醒状態(または覚醒しているときの世界。そのような世界が存在すると言えない段階だが)と夢見状態で意識の位置が移るのだと仮定しよう(眠っていて夢を見ていない状態もあるが、省略)。


 
 もう一つの疑問点。もし、わたしが疑っている(あるいはなにかを思っている)限りにおいて、わたしが存在することが確かだと主張しているのなら、疑っている私が存在することは確かだ、とそのことを疑うことを止めた途端に、わたしは存在しているかどうか確かではなくなる。
 
 
[U]
上野修.2010.10.わたしはある、私は存在する--デカルト(三).本 35(10): 2-6.





生命とは何か

2011年01月01日 11時56分24秒 | 生命生物生活哲学
2011年1月1日-1
生命とは何か
 
 
  「生命とは何か what is life」という問いの意味は、『とは何か』
  の意味と、『生命』という概念の外延(つまり、『生命』は生き
  ている有機体〔生物体〕だけを指すのか、あるいは生命圏全体を
  指すのか)から引き出される。
  (Sattler 1986: 211-212;試私訳[お試しの、わたくし的な訳])

 「それは何ですか? what is it ?」と問われれば、「それは~です。 it is x.」と答えるだろう。このとき、「である is」の問題については知らん顔して、「~」には、どのような種類の言葉が置かれるのか。

 質問が言葉で行なわれれば、言葉で返すのが多くの場合だと思う。((あるとして、)テレパシーによる場合は、脳内に音声が聞こえるのか、あるいは、概念的な物体が転送?されるのか?) 定義とは、定義項(言葉を構成要素として、それらが(多くの場合、線的に)配置される。そうではない例としては、(定義とは言えないかもしれないが)タルムードに見られる方式)と被定義項を併置し、その二つをなんらかの操作記号(たとえば、「=def」)で結びつけることである。たとえば、

  A =def b*c#e
    (*, #:なんらかの操作子)

のようにである。

 (あかん。また厳密に書こうとして、逆茂木型に支離滅裂になってしまった……そや、ちょっぴり思い出した。)

 (また忘れた。忘年会をしなかった祟りかも。)

 
 生命は、生きている物体の機能であるのか? (機能については、Buller 1999の総括を見よ。)


 生きている物体として、家猫(野良猫と野猫を含む)を考えてみよう。これは、「ネコ」という名称によって表現される分類的概念(クラス)に属する。学名は、_Felis catus_ または _Felis silvestris catus_である。

  イエネコは従来、ネコ科ネコ属のネコという種(Felis catus)とさ
  れてきたが、最近になって、ヤマネコ(Felis silvestris)の1亜種
  (Felis silvestris silvestris)と見なされるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8C%AB

とあるが、_Felis silvestris_の模式標本とされた、または属員として指示されていたのは、「ヨーロッパに棲息するネコ属の1種」であるヤマネコに属する生物体であろう。したがっておそらく、「(Felis silvestris silvestris)」ではなくて、「(_Felis silvestris catus_)」であろう。ウィキペディアの他の項(=ネコ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B3
では、_Felis silvestris catus_となっている。しかし、

  学名
  Felis silvestris catus
  (Linnaeus, 1758)

と、「Linnaeus, 1758」が括弧内になっているのはなぜ? イヌでは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C

  学名
  Canis lupus familiaris
  Linnaeus, 1758

と、括弧内になっていない。


  _Felis catus_ Linnaeus, 1758

  _Felis silvestris_ Schreber 1777

をくらべると、Linnaeusのほうが先だから、_Felis silvestris_の方が _Felis catus silvestris_となるはずだが、ITIS(Integrated Taxonomic Information System)とMSW(Mammal Species of the World)によって強権発動的に_Felis silvestris catus_となったのか(なんら確認していないので、間違っているかも)、あるいは命名規約上の根拠なくITISとMSWに関わる人々がそのようにしているのか。

 (なんという脱線! やっかいな生物分類とその命名。)
 (戻線)
 
 It is what it isという言い方がある。ならば、

  Life is what life is

もあり、だろう。最節約的で良いかも。

 つまり、一つ以上の諸性質を表現する語を並べるよりも、必要かつ十分条件を簡潔に与えている。すなわち、生命は言葉で定義できるのか、また、定義して何になるのか、概念で置き換えられるのか、が問題である。たとえば、生命とは経験するものだ、といったような答え方。あるいは、生命は概念的思考によって捉えることばできず、したがって言葉で定義することはできず、(たとえば)生命は直観するものである(直観によって捉えるものだ)、とか。

  神を述べるのに、「It is that it is that」だったかな、そういう言い方があったと思う。何々であるといった述語を一つでも並べることは、限定することである。限定が無い(否定形。もっともこれは表現上ことである。→渡辺慧の「醜い家鴨の仔の定理」を参照)と言うのも、限定することであり、無限であると言っても、結局は言葉による限定ということになるだろう。つまり、定義できない。
 もう一つは、こうではない、そうではない、何々ではないと、「~ではない」を無限個並べるやり方もあり得る。しかしこれも、言葉による限定となる。つまりは、われわれの知的活動による限定になる。

  宇宙とは宇宙である。
  生命とは生命である。
  ゆえに、宇宙は生命である。
  ゆえに、生命は宇宙である。
  ゆえに、生命 =def 宇宙。
  ゆえに、宇宙 =def 生命。
  よって、生命 =def 生命。

 しかしながら、概念的思考の結果、言葉によって表現して、なにごとかを指し示すこと、それが知的活動の性(さが)である。

 
 
[B]
Buller, D.J. 1998. Etiological theories of function: a geographical survey. Biology & Philosophy 13〔4〕: 505-527. [Buller 1999: 281-306 に再録。ただし、原論文にある6行分のabstractは掲載されていない。]

Buller, D.J. (ed.) 1999. Function, Selection, and Design. viii+325pp. State Univ of New York Press. [機能に関する主だった論文が再録されているので便利。]

[S]
Sattler, R. 1986. Biophilosophy: Analytic and Holistic Perspectives. xvi+284pp. Springer-Verlag.

[W]
*Walsh, D.M. & Ariew, A. 1996. A taxonomy of functions. Canadian Journal of Philosophy 26: 493-514. [Buller 1999: 257-279 に再録。]