SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

現代のイスラエル 8

2013年04月26日 | 日記

 

 

   『もう、罪を犯してはいけない』 11 十字架には罪を癒す力がある

火の蛇に噛まれたイスラエルの民を生かすために、神様の指示で青銅の蛇は高く掲げられた。

ここに癒しがある! ここに癒しがある!

「おお、友よ、どうすれば癒されますか。お願い、助けてください」

「仰ぎ見れば助かります!! 仰いで見れば生きます!!」

 

その話を聞いて、死にそうな一人の人が、はいずりながら天幕のすそを持ち上げて、掛けられた青銅の蛇を仰いで見た。見ると、たちまち噛まれた傷が癒された。青銅の蛇は飾りではなかった。それは、信じて仰ぎ見る者を癒す力があった。神様が、自分の民を癒すために仰いで見なさいと言われた。青銅の蛇を仰ぐ者には癒しが与えられたのに、十字架には、私たちの罪を癒す力がないというのか?

キリスト・イエスは次のように語られた。

モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3章14,15節)

     現代のイスラエル 9 旧約の歴史をくり返すユダヤ人

次に飛びまして、7章36節から38節までを見ていきましょう。ここではモーセについて、メシヤ、イエス・キリストとモーセを比較、対比させています。モーセはイスラエル人たちをエジプトの奴隷状態から救い出しました。そして将来、私のような指導者を神様がお立てになると言ったのですね。そのお方は民を罪の状態から、奴隷状態から救い出すであろうと言ったのですね。そして、モーセが預言したところの、将来の預言者というのがほかでもないイエス・キリストであられると、ステパノはここで明言したのでした。こうことをステパノは言わんとしていたのです。そのことは、サンヒドリンの議員たちを怒らせたと思いますか?その通りでした。歯ぎしりするくらい彼らは怒り狂いました。36節から見てみましょう。「この人が、人々を導き出して、エジプトの地においても、紅海においても、また四十年のあいだ荒野においても、奇跡としるしとを行ったのである。この人が、イスラエル人たちに、『神はわたしをお立てになったように、あなた方の兄弟たちの中から、ひとりの預言者をお立てになるであろう』といったモーセである。この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使いや先祖たち共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなた方に伝えたのである」。そして、39節から43節まで見てみますと、この当時の教会がまさにエジプトの奴隷状態、あるいは偶像礼拝に逆戻りしていることを指摘しています。ステパノは当時の教会指導者たちを、責めていましたね。そして彼らに向かって、「あなた方は、古代イスラエルの歴史を正確に繰り返そうとしています。同じ間違いを犯そうとしています」と言っていたのです。



二つの契約 8

2013年04月25日 | 日記

 

   『もう、罪を犯してはいけない』 10

      Chapter3 あなたにとって十字架とは?

そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民を噛んだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかし、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた(民数記21章:6-9節) 

     偶像になった青銅の蛇、偶像になった十字架

イスラエルの民は、荒野で火の蛇に噛まれて死ぬことになった。死んでいく人々が、神様の命令に従って、モーセが掲げた青銅の蛇を見上げたら助かった。ところがその後、イスラエルの民は、その青銅の蛇を偶像あつかいした。長い間彼らは、その青銅の蛇に向かって香をたいていた。

ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタと呼んだ。(列王記下18章3,4節)

今日も、全く同じ精神が、十字架を仰ぎ見るというクリスチャンの中にある。彼らは、教会に、家に、ネックレスにさえ十字架をつけている。 

愛する兄弟姉妹の皆さん、あなたにとって十字架は何を意味するのだろうか? 十字架は、あなたがこれまでに犯した罪を赦すことだけで終わるのだろうか? そうであるなら、あなたにとって十字架は偶像なのである。十字架が、罪を赦すことの象徴であるだけなら、あなたにとって十字架は、イスラエルの民が偶像のように仕えた青銅の蛇のような存在でしかない。あなたにとって十字架は、過去に起きた一つの偉大な出来事、それ以上の意味はないのである。

       現代のイスラエル 8 ステパノの説教と現代の教会

当時パレスチナ地方は地理的に重要な位置にありまして、多くの主だった国々がそこを通って、色々な、貿易とかに行ったんです。中心的な地理関係にありました。そこで神様は、神の民をその中心的な場所に置いて、世界中にその光を広げる、伝える役目を果たすように意図されたのです。そこで、あのような場所にイスラエルを置かれた神様の目的は何であったかと言いますと、教会を興して、メシヤがそこに現れることを告げ知らせる、ということだったのです。ところが、「約束の子孫」、そういうことを言っただけで、当時のユダヤ教会の指導者たちは、非常に憤慨してしまいました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの目的は自分たちの地上の王国を建てることだったからです。そして、イスラエル国家が繁栄して、全世界に誇れる国を造ることだったのです。大きな地上の教会を設立すること、それが彼らの目的だったのです。この聖句の中に、今日の私たちの状況を見出すことができますでしょうか。今日の真の霊的状態をステパノは人々に指摘したのではないでしょうか。その通りなのです。まったくその通りです。近い将来、私たちは恩恵期間の終了に直面します。その時にあります。



現代のイスラエル 7

2013年04月24日 | 日記

 

 朝の散歩コース、紅カナメの植え込み。この奥は夷隅川  

  「もう罪を犯してはいけない」 9

 2 新たに生まれるとは?

 

十字架の愛を悟った人の心には、自分のために生きないで、神さまと隣人のために生きようとする願いが満ちるようになる。悪を行うことが好きだった人が、善を行うことを切に願うようになる。自分のすべてが、イエス様の御心と思いと計画とに一致することを切に望むようになる。これが新しく生まれるということだ。

このような変化が、心の中から湧き上がってくる時、人はようやく神様のみ言葉に服従する人生を送ることができるようになる。自己がなくなって初めて、まことの神様の姿がその人に反映されるようになる。本物のクリスチャン人生は、人間的な努力や決心によってではなく、新しく生まれ変わることによって可能となるのである。

「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。(ガラテヤ人への手紙2章20節)

   「現代のイスラエル」 7  民を罪から救われることがイスラエルを選ばれた目的だったのです

アブラハムとモーセの経験と歴史を通して、神様がご自分の教会をお建てになった目的について述べているのです。神様はエジプトの奴隷状態にあった中から、ご自分の民を救い出してカナンの地に置かれました。そしてステパノは、二つのことを指摘しました。この地上の一時的な繁栄国家を与えるというのが、神様の目的ではなかったということ、これが第一の点であります。もちろん民として、何らかの土地を得て、そこを耕して食物を得たり、国を興して、自分たちを守ったりすることは必要なことでした。しかし、神様が彼らをカナンの土地に置かれた理由はそれではなかったのです。

目的はそれではありませんでした。それは、神様のご計画、神様の目的を遂行するための最低限の必要でしかなかったわけです。ですから、神様のご計画の最も重要な目的、重要な点は地上的な一時的な祝福ではないのです。アブラハムにも、神様は安住の土地を与えられませんでした。最初は土地も遺産もありませんでした。神様がアブラハムに約束されたのは、土地ではなく子孫だったのですね。そして、その約束の末がメシヤでありました。そのメシヤおいでになってご自分の民を罪から贖うこと、それが目的でありました。そのメシヤの贖いの祝福に、世界中の人をあずからせる。これが神様の目的だったのです。

 


現代のイスラエル 6

2013年04月23日 | 日記

 

 

「もう罪を犯してはいけない」 8 新しく生まれなければ

Chapter 2 目覚める人々

   ① なぜ善を行えないのか?

「私は本当に神様のみ言葉通りに生きたいのです。しかし弱くて、たびたび世の誘惑に陥ってしまって、罪を犯してしまします。いくら決心しても、この罪から逃れることができません。私の信仰のどこが問題なのでしょうか?」

「私は、クリスチャン家庭の信仰的な雰囲気の中で生きていながら、本当に善良な生き方ができていません。そのため信仰生活が苦しいです」

「私は罪責感で胸が押しつぶされそうでした。そのような時、神様の赦しの福音は、私を3年ほど幸せにしました。これで私は、自分の問題がすべて解決されたと思いましたが、ねたみや情欲や憎しみ、怒りなどが相変わらず起きてきて、罪の問題がすべて解決されたのではないということが分かりました。私はこんな二重人格の自分が大嫌いです」

 すべての人は、エゴイストとしての性質をもって生まれてくる。私たちは、受け継いだこの罪の性質では、神様のみ言葉に服従する生活を送ることができない。生まれつきの肉に属している人は、霊のことを実行することができないのである。新たに生まれ変わる経験がなくては、善を行おうとする意志はあっても、善を行うことはできない。

 

    現代のイスラエル6 ステパノの殉教

使徒行伝7章をお開きください。1節から7節まで見てみたいと思います。紀元34年にサンヒドリンの場でステパノがどのようなメッセージを語っていたか、ほとんどの人は理解していないと思うのです。私もそうでした。一見わかりにくい、いったい何を言いたいのか、はっきりしていないような感じのメッセージなんですね。彼はまず、イスラエルの歴史について述べています。なぜアブラハムの時代から、彼の時代までのイスラエルの歴史について、ステパノがここでこのようなことを語ったのか私にもわかりませんでした。そういった歴史というものは当時、ユダヤの人たちによく知られていたものだったのですね。ところがステパノはイスラエルの歴史の中で、ある重要な局面について指摘していたのです。ですからステパノが、ある特殊な言い方、やり方でイスラエルの歴史を述べたことによって、ユダヤ人達は怒り狂って、ステパノを外に連れ出して石で打ち殺してしまいました。何を言ったので、ユダヤの指導者たちはこれほどまでに怒り狂ったのでしょうか。そのことを見ていきたいと思います。

初めに使徒行伝7章の1節から7節までを見てみましょう。お読みします。「大祭司は『そのとおりか』と尋ねた。そこで、ステパノが言った、『兄弟たち、父たちよ、お聞き下さい。わたしたちの父祖アブラハムが、カラン住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて、仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。そこでアブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたの住んでいるこの地に移住させたが、そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。神はこう仰せになった、『彼の子孫は他国に身を寄せるであろう。そして、そこで四百年のあいだ、奴隷にされて虐待を受けるであろう』。それから、さらに仰せになった。『彼らを奴隷にする国民を、わたしはさばくであろう。その後、彼らはそこからのがれ出て、この場所でわたしを礼拝するであろう』  

今この1節から7節まで読みましたけれど、そこに何を見ることができるでしょうか。ステパノは彼のあかしの中で何を言わんとしていたのでしょうか。ただ、表面的に読み進んで行ったら、大事な点を簡単に見逃がしてしまうのです。ステパノはこれらの聖句の中で、二つの重要なことを述べています。

 


現代のイスラエル 5

2013年04月22日 | 日記

    

日本フラワー&ガーデンショウにて 

 「もう罪を犯してはいけない」 7 求めるなら光を見いだす

あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。(コロサイ人への手紙1章21、22節)

 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、  (エレミヤ29章13節)

聖霊様が良心に訴える声を聞く人たちがいる。

しかし、み言葉の光を知らないので、彼らは行く所が分からない。

しかし、その心を目覚めさせた聖霊様が、あきらめず光を探し求める人に、真理を開いて下さる。

 

  「現代のイスラエル」 5 イスラエルから祝福が取り去られる

次にペテロ第1の手紙2章9節をご覧ください。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招きいれて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである」 皆さんよくご存知の聖句と思います。ところで、この聖句と同じように書かれているところが、出エジプト記19章6節に見られるのですよ。「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう」 神様はこの故に選民イスラエルをお選びになりました。

ところが、神様の目的を遂行する民としての役割は、イスラエルとユダヤ教会から、初代キリスト教会へと移されました。もう一度ペテロ第1の手紙2章9節を見てみましょう。「しかし、あなた方は、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって暗やみから驚くべきみ光に招きいれてくださった方のみわざを、あなた方が、語り伝えるためである」。単純にわかりやすく書いてありますね。神様がなぜご自分の教会をお選びになったかと言いますと、神様の真理の光、神様ご自身の品性を世界中に知らせるために、そのことを伝える民をお選びになったわけです。ところが、その神様の光、祝福がイスラエルとユダヤ教会から取り除かれて、初代キリスト教会へと移される時がきました。そのような重要な局面にあって、ステパノは、サンヒドリンの前に立っていたわけです。