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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

同性婚と新世界秩序への入口 第7回

2015年09月02日 | 日記

 同性愛は神様に敵対するもの

同性愛擁護の学者たちは、「同性愛は遺伝的、生理学的な問題である。そのような生まれつきのものをどうしろというのか?だから、それを認めるべきだ」と述べています。皆さんは何と答えるでしょう?

皆さん、私たちが生まれた時、何を持って生まれるでしょうか?罪の性質、罪の傾向を持って生まれてきます。この世に生まれるすべての子供はすべて、この罪深い性質を持って生まれてきます。ですから本能的に義に向かう心より、罪に傾く力の方が大きいのです。しかし、それは私たちが罪を犯すことの言い訳にはなりません。

私たちは生れつきそうだったとしても、私の意志を、私の心を神様に捧げるなら、聖霊は私たちが罪を犯さず清く生きるように導いて下さるのではないでしょうか。「私はもともと罪深い性質を持って生まれてきた。だから罪を犯すしかない」という言い訳が通用しないように、聖霊は、私たちを助けるために常に待機しておられます。私たちは、「主よ、私を助けてください」と祈り、多くの誘惑が来るとしても、私の意志がキリストを選ぶようにしなければなりません。聖書は、私たちが罪を犯さずにイエス様に従って生きることが出来ることを明らかに約束しています。

では、何が問題なのでしょうか!「同性愛的傾向を持って生まれた?」。「はいそうです」。そう言えるでしょう。否定はしません。男性であっても女性ホルモンを多く持っている人がいるでしょう。しかし、私たちが罪の傾向を持っているからといって、罪を犯すことを合理化出来ないように、同性愛的な傾向を持っているという事実が 同性愛を合理化するのではないのです。同性愛は愛ではなく、神様に敵対するものです。私たちは、真理の前にひざまずいて自分を正さなければならないのです。もしかしたら皆さんの周りに同性愛者がおられるでしょうか。彼らを助けてあげましょう。彼らを嫌悪せずに、どのように助けるべきでしょうか。私たちが罪に勝利できるように、私たちの意志を主に捧げるように、彼らにも、彼らの意志を聖霊様に委ねるように、そして立ち上がるように助けなければなりません。人にはできませんが、神様には不可能がありません。

 

これは私が妻にもまだ話していない秘密ですが、私が小学校の時のぼんやりした記憶です。私の姉が私にスカートをはかせて、頭を縛って化粧させてスーパーに買い物に行かせた記憶があります。姉の悪巧みに踊らされてしまいました。そのためか、私は青年時代、演劇部で芝居をする時、女性の役割を引き受けたことが何回かあります。私が女性になりたくて、そのようにしたわけではありません。

ところが、自分からそうしたい人々がいます。女性のように笑って、女性のように話して、女性のように行動する男性がいます。女性の中にも、そのような女性のように見えるイケメンが好きな人がいて、男性が女性のような服装や化粧をしたり、メディアでそのような男性を魅力的な人としてもてはやしたりしています。

私の声はちょっと高い声です。それで、私の説教の音声だけ聞いた方の中には、私が女性だと思っていたという人がいます。自分ではそこまでだとは思っていませんが・・・。今、この説教の音声のみを聞いておられる皆さん、私は女性ではありません!これは私が願って、わざわざそのようにしているものではありません。声を変えられる手術があれば真剣に検討してみますが・・・。