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慰安婦問題を考える会

日本は世界から慰安婦問題で非難されていますが、その慰安婦問題はだどういうことで、どういう対応・対策をすべきか考えたい。

韓国元徴用工の肉声 本当に金による解決を望んでいるのか 「元徴用工」韓国“異常”判決問題 「私は日本人が好きでした」と語った

2019-12-13 14:21:13 | 日記

 

韓国元徴用工の肉声 本当に金による解決を望んでいるのか (1/4ページ)

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 12月下旬、1年3か月ぶりの日韓首脳会談が実現しようとしている。そこで焦点となるのが徴用工問題だ。昨年末の韓国最高裁の判決によってくすぶり続けている問題は、実際に「元徴用工」たちの肉声を聞くことによって、違う核心が見えてくる。ジャーナリストの赤石晋一郎氏が現地取材で得た証言とは--。

 * * *

 ソウル市の郊外、城南市で待ち合わせした老人は、独りで暮らす自宅で取材に応じてくれた。

 「日本人のほうが韓国人より、いい人が多かったと私は考えています。私が炭鉱で働いていた時代、日本人にはとても親切にされた思い出があります」

 こう語る崔漢永氏(91)は、徴用工として日本で働いた経験を振り返り、「私は日本人が好きでした」と語った--。

 11月22日に韓国政府が下したGSOMIA継続の決断以降、日韓関係の焦点として再浮上しているのが「徴用工問題」だ。

 昨年末に元徴用工が日本企業を訴えた裁判で、韓国大法院(最高裁)は日本製鉄(元・新日鉄住金)、三菱重工に対して、相次いで賠償を命じる判決を下した。同判決を契機に韓国内では徴用工問題は“奴隷労働”の歴史だったという議論が沸騰し、ソウル龍山駅前などの各地に徴用工像が相次いで建設される事態となった。

 そうした状況の解決を目指し、11月末に文喜相・国会議長が「記憶・和解・未来財団」の設立を提唱した。

 「この文議長案は日韓企業と個人による自発的寄付金をベースとして財団を設立するというものでしたが、元徴用工に高額な慰謝料を支払うという方針をめぐっては、異論の声も出ている」(ソウル特派員)

 韓国大法院判決では日本企業が元徴用工に対して1億ウォン(約910万円)の慰謝料を支払う判決が出た。さらに文議長案では元徴用工を対象に1億~2億ウォン(約910万~1820万円)を支払う予定といわれ、慰謝料は高騰の一途を辿っている。

 しかし、果たして当事者である元徴用工たちは、本当に金による解決を望んでいるのだろうか。

 ◆「日本人も同じ賃金だった」

 冒頭の崔漢永氏が日本に渡ったのは15歳の時だったという。

 

 「私は自分の意志で日本に行きました。当時、父親が傷害事件を起こして逮捕され、罰として日本での強制労働を命じられた。しかし父を失うと9人の大家族なので困る。そこで私が代理として『日本に行く』と手を上げました。年齢も18歳と偽りました。

 日本での働き先は、福岡県飯塚市にある三菱炭鉱でした。炭鉱には私以外にも何百人もの動員された朝鮮人がいました」(崔氏)

 徴用工として日本で働いた崔氏。しかし、日本人からの差別を感じることはなかったと振り返る。

 「私は坑道を作る仕事を主にしていました。現場では日本人と朝鮮人が一緒に働いていた。休みは月に1日か2日でしたが、日本人も朝鮮人も同じ労働条件で、同じ賃金をもらっていました。朝鮮人だからと差別や暴行を受けるということもなかった。

 特に私は15歳と若かったこともあり、上司のサキヤマさん(日本人)に大変可愛がられた。『私の娘と結婚しないか?』と言われたこともありました」(同前)

 ◆「賠償裁判では何も得られない」

 崔氏は日本人に悪感情はないという。私が「徴用工に慰謝料は必要だと思うか?」と問うと、崔氏はこう語った。

 「(元徴用工が)裁判を起こしても何も得られるものはないよ。この高齢でお金を手にしてもしょうがないだろう。私はお金もいらないし、補償をして欲しいとも思わない」

 

 同じように差別はなかったと語るのは金炳鐵氏(96)だ。金氏は20歳のときに地元・麗水郡庁からの徴用命令を受けた(※注)。行き先は佐賀県だった。

 【※注/戦中の労働力不足を解消するために1939年に制定された国民徴用令によって、日韓から多くの人間が動員された】

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「私が派遣されたのは佐賀県西松浦郡のウラサキ造船所でした。私は資材課に属し、工場内で出る屑鉄を集める仕事をしていました。集めた屑鉄は、鉄工場に輸送され再び製鉄されるのです。造船所で働く2000人のうち、700人が朝鮮人でした。朝9時から4~5時頃まで働き、日曜日ごとに休みはありました」

 ウラサキ造船所とは、当時、佐賀県に存在した川南工業の浦崎造船所だと思われる。軍需工場だった浦崎造船所では二等輸送艦や人間魚雷「海龍」などが大量建造されていた。

 

 戦争末期ということもあり、食料事情は日本全体で厳しかったと語る。

 「そこはおかずが良くて、よく美味しいブリとかトビウオが1~2匹出た。でも原則はお米と麦を混ぜたご飯を一杯しか食べられない。だからお腹が減る。あるとき、ご飯を盗み出して山中で食べた。そのことがバレて、日本人管理者に殴られたこともありました。でも、(ルールを破ったので)たいしたことではないと思っています。基本的に日本人が朝鮮人に暴力を振るうとか、虐めるようなことはありませんでした」

 金氏の証言もまた、韓国内で語られている“被害者像”とは異なるものだった。

 「私は労働が強制的だったとか、奴隷的だったとは思っていません。そのときは(植民地時代なので)日本人の命令が全てですから、言う通りにするしかなかった。徴用工時代がいい思い出とはいえませんが、学校で日本語を勉強していたので日本語で職員と話を出来たのは良かったですね。ただ鹿児島や宮崎県の人だけは方言がきつくて、何言っているかわからなかったですけど(笑)」

 派遣された場所によって労働環境や実情が違うと感じさせられるのが、姜彩九氏(92)と孫義奉氏(91)のケースだ。同郷だった二人は10代の頃に徴用命令を受けて、ともに大阪のクボタ鉄工所に送られた。

 「500人ほどの朝鮮人がクボタ鉄工所に送られていました。日本人から差別とか、奴隷のように働かされたという記憶はないですね。クボタでの仕事は鉄材を運ぶ仕事ばかりでした。それよりも恐ろしかったのは米軍の空襲です。夜に米機が姿を見せると、空襲警報が鳴りみな逃げ惑った。とても仕事を覚えるというような状況ではありませんでした」(孫氏)

NEWSポストセブン</article>

1945年に米軍による本土爆撃が本格化、ますます仕事どころではなくなったという。姜氏が苦笑いしながら回想する。

 「空襲が酷くなってからは、工員は散り散りとなり、私は兵庫県の山中に逃げ込んで野宿生活を送っていた。だから大法院判決で元徴用工に対して慰謝料1億ウォンの支払い命令が出たと聞くと、私はその金額をもらえるほどの仕事を日本ではしていないと思ってしまうよ。補償はして欲しいけど、(高額な慰謝料の話を聞くと)私たちがお金を吸い取る掃除機みたいだと思われてしまうね(笑)」

 元徴用工の口からは、全ての人が“奴隷労働”に苦しんでいた訳ではないという事実が語られた。歪んだ歴史論争のなかで当事者たちの声はかき消されている。

 ※週刊ポスト2019年12月20・27日号


【お金は知っている】日本がインフラなど莫大な資本投下…戦前の韓国は「高成長」だった

2019-12-13 14:12:15 | 日記

 

【お金は知っている】日本がインフラなど莫大な資本投下…戦前の韓国は「高成長」だった 

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 韓国政府は日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の失効を回避すると同時に、日本による半導体材料の対韓輸出管理厳格化についても、世界貿易機関(WTO)への提訴手続きを止めたが、日韓関係がこれで好転に向かうわけではない。「日韓併合」以来の両国関係について、韓国側が被害者との認識を変えないからだ。

 日本側が「日韓友好」の名分のもとに毅然と反論してこなかったことも祟(たた)っている。

安倍晋三首相と文在寅(ムン・ジェイン)大統領の今月下旬の会談準備が進んでいるようだが、輸出管理、いわゆる元徴用工、慰安婦問題はもとより、歴史認識での生半可な妥協は避けるべきだ。

 グラフは、1910年の日韓併合後、日米開戦前の40年までの韓国の実質経済成長率の推移を部門別に追っている。データは英国の経済史専門のデータバンクであるグロニンゲン成長開発センターに所蔵されている。まとめたのは李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学経済学名誉教授を理事長とするソウルの落星台(ナクソンデ)経済研究所であり、学者としての良識あふれた韓国の専門家の労作による。

 成長率はトレンドを見るために各年までの5年間の年率平均値を筆者が算出した。一目瞭然、韓国(この場合、南北朝鮮)の実質成長率は10年代で6%近くに達し、それ以降も3%前後を維持し、37年までの5年間は6・5%の高成長を達成した。経済の牽引(けんいん)車は鉱工業部門で、10年代は9%台、30年代は16%を超えた。農水産部門は鉱工業に比べて水準はマイナスに落ち込んだ時期もあるが、おおむね2%前後の実質成長を遂げていた。

 46年3月に日本外務省調査局がまとめた「朝鮮統治の性格と実績-反省と反批判」によれば、韓国の歴史文書である李朝実録の記述を参考にすると、韓国の耕地面積は李朝隆煕元年(07年、日韓併合条約は隆煕4年)までの215年間で約4割弱の絶対的減少、李朝末期に至る151年間で人口は2割弱減少したという。つまり、李朝時代の韓国の農業は縮小に縮小を重ね、農民は困窮を窮めていた。

 韓国併合時に現地を見て回った英旅行家イザベラ・バードの『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)では「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる」とある。

 日本はインフラや農業基盤整備、鉱工業開発投資と莫大(ばくだい)な資本を投下し、グラフにあるような高成長を実現した。韓国の当時の成長率は日本本国を多くの期間上回った。対照的に大英帝国の植民地インドの成長率は低く、20年代後半からはゼロ%台で推移したのと雲泥の差だ。(産経新聞特別記者・田村秀男)