(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

 5月31日、脱北者を中心とする韓国の市民団体が、大型風船を使って、北朝鮮の体制を批判するビラ50万枚を北朝鮮に向かって飛ばした。すると、金正恩委員長の実妹・金与正氏が韓国政府を批判する談話を発表。韓国政府に対してビラの散布を中止するよう強い調子で要求した。この一件が、いま韓国と北朝鮮の間のホットイシューになっている。

 北朝鮮のビラ散布中止要求とこれに対する韓国政府の対応は、これまで以上に北朝鮮の威嚇に全面屈服するものである。韓国政府は総選挙を前後して、ますます左寄りに傾斜する姿勢を強めている。それは内政で言えば、歴史の見直しによる権力基盤の強化、尹美香氏に対する庇い立ての姿勢に現れている。これは日本に対し、元徴用工に関連し、日本企業の資産現金化を日本の報復を覚悟してでも実施しようという動きとはきわめて対照的である。

 北朝鮮は、金与正(キム・ヨジョン)氏の談話以降、立て続けに韓国に対し圧迫を続けているが、これは北朝鮮の単なる脅しではなく、何らかの意図を持った行動ではないかとの懸念が広がっている。さらに北朝鮮は、韓国に対し日韓離間を促しているようにも思える。北朝鮮は、「尹美香氏を陥れるのは、親日派の策謀だ」との批判をしており、韓国と北朝鮮政府が連携して対日非難を繰り広げる動きにつながる危険性が増していると見るべきだろう。

(文政権の危険性、政治の失敗については拙書『文在寅の謀略―すべて見抜いた』を参照いただきたい)

金与正氏の談話で始まった「対南攻勢」

 金正恩国務委員長の妹で、朝鮮労働党中央委員会第一副部長の金与正氏は4日、談話の中で、北朝鮮向けビラを散布している脱北者を「人間醜物」「雑種犬」「くず」と呼び非難する一方、「主人(韓国政府)に責任を追及すべき時になった」「悪いことをする奴らよりも、それを見て見ぬふりしてあおる奴の方がもっとわるい」と矛先を韓国政府に向けた。そして、「開城工業地区完全撤去につながるか、ただうるさいだけの北南共同連絡事務所の閉鎖か、あるかないかの北南軍事合意の破棄になるか」として韓国政府に覚悟を求め、「ビラ散布を阻止する法律を作成せよ」と要求したのだった。

 さらに、5日、朝鮮労働党統一戦線部は、「北南共同連絡事務所を閉鎖する」と圧迫を続けた。また、北朝鮮の対外宣伝メディア「わが民族同士」は7日、「月の国のたわごと」との題名で、「性格と内容において、全く異なる北南関係と朝米関係を無理やり結び付けておいて、『好循環関係』のたわごとを言う。それ自体が無知と無能の極限状態」とし、「月の国でしか通じない『月の国のたわごと』だ」と非難した。

 こうした言動は、国際社会と朝米関係が行き詰っていることへの不満が出たものであるが、「南朝鮮執権者」の文在寅氏に矛先を向けたものである。

 この金与正氏の談話に対して、青瓦台は直ちに反応した。ビラは百害無益だとの立場を表明し、統一部は「境界地域において緊張造成行為を根本的に解消できる実効性のある制度改善方策を既に検討している」として、「対北ビラ散布禁止法案(仮称)」を推進していることを明らかにした。

 さらに、北朝鮮が「南北関係の断絶も辞さない」と警告したことについて、「政府の基本的立場は『板門店宣言』など南北首脳が合意した事項を遵守、履行していくことである」と一方的に北朝鮮に歩み寄る姿勢を示してみせた。

 ただ、開城にしろ、軍事合意にしろ、本来ならそこから恩恵を被るのは韓国ではなく北朝鮮である。それなのに文在寅氏がこの存続にこだわるのは、北との関係促進が文氏の成果だと国民に思わせているからである。こうした案件が対南挑発に使われるところが、文政権の弱点である。

 これに対し、複数の国際人権団体は5日、韓国政府の法律制定は「あり得ないこと」「ぞっとする構想」と非難し、野党未来統合党は「金与正下命法を作っている」として反発した。

 これまでビラを散布していた脱北者の団体「自由北朝鮮運動連合」のパク・サンハク代表は、6・25朝鮮戦争70周年記念日に100万枚のビラを散布する考えを明らかにした。脱北者である池成浩(チ・ソンホ)議員は「対北ビラ禁止法は憲法が保障する表現の自由を侵害する歴史に残る対北屈辱行為だ」「国民を脅迫する北朝鮮になにも言えないことには惨憺たる思いだ」と嘆いている。

北朝鮮の挑発・強硬姿勢は続くのか

 過去にも北朝鮮が脱北者のビラを問題視したことはあった。ただ、今回違うことは、これを公論化していることである。さらに、これまでの一連の動きを見ると、ビラの問題は対南挑発の単なる名分に過ぎず、北朝鮮がより激しい対応を考えていることも念頭に置くべきであろう。

 統一戦線部は5日の報道官談話で、「対南事業を総括する第一副部長金与正氏」と述べ、さらに金正恩氏以外で『指示』という極めて異例の表現を使い(与正氏が事実上の「ナンバー2」になったとの評価もある)、「南側からのあらゆる挑発を根源的に取り除き、南側との一切の接触空間を完全に閉鎖してなくしてしまう決定的措置をかなり以前から考えていたことを隠さない」と述べ、手始めに開城工業地区の南北連絡事務所に言及した。さらに、「対決の悪循環の中で、行くところまで行って見ようというのが我々の決心」と追加措置も予告した。

 北朝鮮のこのような攻勢が、先月24日に公開された中央軍事委員会拡大会議以降に出てきたことも注目される。金与正氏を通じてこれが発せられたことで、与正氏の立場、地位は一段と高まったと思われる。

 こうした北朝鮮の意図より発したことであり、韓国が北朝鮮の挑発に屈する姿勢を示していけば、北朝鮮は韓国の譲歩、妥協とは受け止めず、むしろ韓国の弱さの証明として、一層挑発の度合いを高めていくのではないかと懸念される。

歴史の書き換え、思想改造で韓国はさらに左傾化する

 文在寅氏は、5月18日の光州民主化運動記念日の式典に出席したが、そこでの発言を踏まえて韓国与党は、「5・18光州民主化運動」の真相調査委員会の権限を大幅に強化する特別法案、5・18関連の虚偽事実を流布する行為を厳しく処罰する「歪曲処罰法」案を党として採択する手続きに入った。光州事件関連の虚偽事実を流布したものには7年以下の懲役か、7000万ウォン(約630万円)以下の罰金に処することになる。

 民主党はまた、5・18関連法のほか、「麗順(麗水・順天)事件」(1948年)、「済州4・3事件」(1947年)に関する追加的な真相究明を進める立法にも取り組む。

 こうした動きは、「共に民主党」による歴史書き直しであり、歴史的事件をめぐって異なる見解や批判を禁止するものと言える。これまで語り継がれた韓国の戦後の歴史を政権が「歪曲された歴史」と決めつけ“真相究明”していくというのである。法制化されれば、韓国の言論に対する圧力行使から、その後はさらに進んで思想改造まで及んでいくだろう。

 最近、大韓航空機が爆破された事件に関し、盧武鉉政権で進歩系が多数含まれた真相究明委員会が「安全企画部(現国家情報院)捏造説」に根拠がないと判定したが、文政権では改めて取り上げられている。文在寅大統領は「痛ましい歴史を直視できてこそ、正義が確立されて親の和合と権力の維持が強固になる」と述べ、歴史的正当性を権力強化の武器にする姿勢を鮮明にしている。

 こうした動きは、内政ばかりでなく日本との関係における元慰安婦や元徴用工の問題にもみられ、文在寅政府が進める歴史の一方的見直しと共通するものがある。5月20日、「真実・和解のための過去事整理基本法」が国会を通過した。これに基づき、日本統治時代以降から、韓国の保守政権の人権侵害事件の再調査が進められる可能性がある。

北朝鮮による、正義連と尹美香擁護の狙い

 北朝鮮の対南宣伝メディア「統一のメアリ」は1日、正義記憶連帯(正義連)元理事長尹美香氏の不正腐敗疑惑を口実に、正義連とその支持勢力に対する保守勢力の非難攻勢について、「歴史の真実をまさに打ち立てようとする運動を貶めようとする親日、反人権、反平和の勢力のうごめきだ」と非難した。

 別の対外メディアも31日、「親日清算闘争を最後まで繰り広げなければならない」とする論評を掲げている。さらにその後も尹氏を支援しているのは、正義連と北朝鮮との親しい関係のせいばかりではないだろう。

 北朝鮮の親日発言は、尹氏を庇う「共に民主党」と共通する部分がある。尹氏を告発したのは、元慰安婦で常に運動の中心にいた人物である。文在寅氏の言う「被害者中心主義」の見地に立てば、最もその意見を尊重しなければならない人である。まして告発者である李容洙(イ・ヨンス)氏は文在寅大統領がトランプ大統領を迎えた国賓晩さん会に招かれ、トランプ氏と抱き合った人であり、元慰安婦の代表として、文大統領の行事に4回出席している。

 ところが、文大統領は李氏の涙ながらの訴えにも、党の問題として逃げている。文氏にしてみれば、尹氏に味方しても、あるいは李氏に味方してもどのみち批判されるという思いなのであろうが、肝心な時に逃げ回るのは、まさに文氏らしい行動である。

 同じように「共に民主党」もこの問題には口を閉ざしている。尹氏の不正が次々に明らかになると、当初は「親日派の策謀だ」などという主張をしていたが、それでは説明がつかず、国民は納得しないだろうとの思いが与党関係者の中にも広がってきた。尹氏に説明責任を求める声が高まったのだ。

『文在寅の謀略―すべて見抜いた』(武藤正敏著、悟空出版) © JBpress 提供 『文在寅の謀略―すべて見抜いた』(武藤正敏著、悟空出版)

 しかし、「共に民主党」の李海チャン(イ・ヘチャン)代表は「(尹氏に対する)個人攻撃的疑惑提起に屈してはならない」「我々が成熟した民主社会に飛躍できるよう、あらゆる部門の自制が必要だ」とし、まるで疑惑を抱く人々の方が間違っており、自制せよとの驚きの論理を展開した。

 朝鮮日報によれば、「共に民主党」の尹美香擁護は、「党指導部がこの事態を進歩系陣営の存在根拠である市民社会運動に結び付けているところに端を発する」とのことである。記事の中である議員は「正義連はもちろん、市民社会運動全体の正当性がかかっている非常に複雑な問題だ」と述べている。

 しかし、実際には尹美香氏の寄付金や補助金の不正流用などが問われている問題であり、むしろ尹氏個人の行動によって市民社会全体が疑われ迷惑している話ではないか。そこを追及せずうやむやにすることが、元慰安婦やその支援者のためにはなるまい。

 ただ、「共に民主党」は簡単には正義連を切り捨てられない事情がありそうだ。正義連や挺対協出身者は、政権与との枢要部に入り込んでいる。例えば、池銀姫(チ・ウンヒ)元女性部長官、李美卿(イ・ミギョン)元議員、シン・ミスク元青瓦台秘書官などだ。また、正義連事務総長は青瓦台広報企画秘書官の妻だ。朝鮮日報に寄れば、現政権の青瓦台首席秘書官や長官クラス経験者の中で、市民団体出身者は既に20人近くいるという。こうした政権の正義連、市民団体とのしがらみが、元慰安婦の中心的活動家よりも正義連を重視する姿勢となって来るのである。

韓国の北朝鮮追従、日韓対立は北の思惑通り

 こうして見てくると、今の文在寅政権は何が国のため重要かではなく、「左派政権を強化するためには何が必要か」を基準にして、政策判断しているように思われる。これは将来の韓国のため非常に不幸なことである。そして、北朝鮮との関係の維持・強化のためには犠牲をいとわない姿勢であることが懸念される。北朝鮮の挑発に理念も原則もなくなびいていく姿勢。北朝鮮はこれをどう受け止めているであろう。北朝鮮のような国は、相手が強力であれば一目を置く国である。それを見境なしに譲歩を繰り返していると、なおさら要求が高まってくることが文政権には理解できないのだろうか。

 北朝鮮は、日米韓の連帯を恐れている。まず、元徴用工や慰安婦の問題、戦略物資の輸出規制、GSOMIA終了問題でとげとげしい関係にある日韓を離間させることが彼らの利益にかなうであろう。慰安婦団体の問題での「親日批判」はほんの手始めに過ぎない。韓国の追従、日本との対立を利用してくることが懸念される。

 ただ、これを防ぐことができるのは、韓国の出方いかんである。