大正時代に年次有給休暇を使い切った登山家加藤文太郎。

2022年01月18日 | 社労士
数年前、富山駅のビルに入っている書店でヤマケイ文庫を2冊購入した。数ページ読んだだけで放置していたが、なにげなく手に取り読み始めた。
大正時代の登山家加藤文太郎の伝記である。
小説家新田次郎の「孤高の人」が有名であるが、私が読んだのは谷甲州の「単独行者アラインゲンガー」である。
登山経験のない自分でも、面白いな―と思う内容である。登山家ならなおのこと、面白く読めるのではないかと思う。
さて、このブログで登山家加藤のことを書いたのはほかでもない、会社員である加藤がめちゃくちゃ年次有給休暇を取っていたからである。いや、有給かどうかははっきりしないのだが、あまりにも休暇が多すぎるのである。欠勤扱いでなく給料が減らないなら実質有給休暇である。申請したら取れたっぽい書き方なので有給に近い。
加藤が生まれたのは1905年明治38年である。14歳で高等小学校なるものを卒業し、三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務し、兵庫県立工業学校夜間部を卒業して見習い製図工をしていた。登山を始めたのは1923年ごろである。
工場法は1911年に成立しているので、製図工の加藤もその保護対象にはなっていたと思う。
しかし、工場法には年次有給休暇など規定されていない。恩恵的に与えられていた休暇なのか?
加藤は見習い製図工とはいえ、専門職であり、当時エリートの部類に入っていた事務員など職員扱いだったのだろうか?
とにかく、加藤は年末年始や夏季休暇の他、年次有給休暇を取りまくって登山に挑んでいるのである。
厚労省は10年ほど前から年次有給休暇にえらく力を入れており、取得の義務化までやってのけたが、いまもって全労働者の半分ほどしか取得実績はない。
それなのに加藤は休暇三昧、登山三昧なのである。
ただ、そうはいえども、休暇を超えて休むわけにもいかず、加藤が無理な登山を行ったのはサラリーマンゆえのことでもあるようだ。
当時の登山はどのような人たちのものだったのか。
今現在登山は山ガールなる言葉もあり、老若男女問わず、気軽に誰でも楽しめるレジャーであるが、加藤が生きた時代には、おそろしく金のかかる高給なスポーツだったようだ。
本に出てくるのも内務省や宮内庁の役人、帝国大をはじめ、有名大学のおぼっちゃんばかりである。
加藤の年次有給休暇の取り方からして、加藤も当時の庶民の中ではかなり恵まれたほうであると思われるが、それでも加藤は山でいっしょになった金持ち連に気後れしているのである。
案内人を付けてパーティーで登山するのが当たり前の時代に、加藤は案内人もなく単独で登山しているので、そういったことへの非難、とりわけ貧乏人が身分もわきまえず登山をやり、金惜しさに案内人もつけていないとの悪口への身構えもあったと思われる。
しかし、それでも他をかまわない、我が道を行く変人加藤が、東京からの登山客に対し、えらく自分を卑下しているのが面白かった。
内務省など官僚パーティーを追いかけて嫌がられ、あげく、そのパーティーが遭難したことで、遺族から責められたりしている。
単独の加藤はなぜかパーティーを組み、無理な雪山決行をして、遭難してしまう。
なぜパーティーを組んだのか。わからずじまいである。
なんとなく成り行きで…みたいな書き方であったが、真相はわからないのである。
加藤は病気の父親から、登山だけはやめてくれと懇願されたにもかかわらず最後まで山に登り続けて山で死んでいる。
ある人は、なぜ山に登るのかと聞かれ、そこに山があるからと答えたそうだが、加藤もそうなのか。そうとしかいいようがない。
もう1点、登山とは関係ないところでおもしろかったところ。
兄の嫁が登山前日に、朝飯の準備をするだの、昼はどうする、買い食いはよくないなど、こまごま言うのであるが、加藤は閉口して、いっさいを固辞する。そばにいた兄が「遠慮するな」と言うのに対し、加藤は、兄は自分が早く起きてメシの支度をするわけでもないのに…兄嫁の仕事と思っているのか…と、所帯を持つことのわずらわしさを思う。加藤は登山に関することはもちろんのこと、身の回りのことはすべて自分でやる男だった。
登山をやめるという約束は守らなかったが、身を固めるという約束は守って結婚するが、身を固めるひまもなかったのである。
それでも、加藤は結婚によって、山への情熱を失うことを寂しく、やりきれなく感じていた。
加藤は山を登り切った、だから山は加藤を一部として受け取ったのだろうか。

コメント
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