Twitterを始めた頃、直観的にわかったのはこれは「作家の日記」の現代版だな、ってことでした。大作家もみんな読まれることを意識して日記を書いていることがわかった青年時代に感じた「ある感覚」を満たすものですね。
Facebookをやっているうちにだんだんこれは批評の神様といわれ批評という新たな創造的ジャンルを開拓した小林秀雄さんいうところの批評ごっこのようなもんだなと感じます。批評の真髄は「他人の作品を通して己の夢を懐疑的に語るもの」という意味のことを小林さんは書かれている。Facebookで書かれることは作品ではなくつぶやきのようなものです。多くの人は他人のつぶやきを通して己のつぶやきを批評的に発するのかも知れません。
Facebookの経済モデルになった少数民族の生活があったようですがあれはまさに東峰村でした。新しいことを纏ってるけれど中身は人間の生活にずっとある基本形なんですね。やはり道具の使い方を見失わない事と感じます。そういえば小林秀雄さんの評論に「様々なる意匠」がありました。TwitterやFacebookやUstream、Youtubeなど一見色々な意匠をもって登場する最近のITステージですがその意匠を纏って語られる中身はあまり変わらない。何故なら人間の本質があまり変わらないから。
この流れで住民ディレクターという意匠について言うと人間の生き方を言っているのでテレビにはじまってTwitter、Facebook、Ustream・・・、全部使えるものは必要なんですね。「住民ディレクター」は「道具」のひとつではなくて「人」そのものですから。