聖書(キリスト教)は積極的で、論語(儒教)は消極的。
そう言われることがある。そんなコメントをこのブログでいただいた。
聖句で確認してみると、、、
■ 聖書
人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。
in everything, do to others what you would have them do to you
マタイ7:12
自分を愛するように、隣人を愛しなさい
Love your neighbor as yourself
マタイ22:39
■ 論語
己の欲せざる所は人に施す勿れ (顔淵)
たしかに、上の語句だけからすると、キリスト教が積極的で、儒教が消極的だ、ということになる。それに沿ったネット意見はいくつもある。主にキリスト教の人が言っている。
しかし。
論語には、上記の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」というような消極的な文句だけがあるわけではない。論語にある512の文句のうち、
夫れ仁者は己れ立たんと欲して人を立たしめ、己れ達せんと欲して人を達せしむ。
なんかは、とても分かりにくいですが、いちおう、儒教にも聖書的な積極精神があることを示している。
他にも論語の「恕」すなわち思いやりを表す言葉で、積極的なものがあるはずだ。と思ってググってもぱっとヒットしませんが(上記の「それ仁者は…」はヒットする)、
義を見て為さざるは勇なきなり
なんかは、恕や仁の文脈ではない、義とか勇の文脈になっちゃいますが、積極精神を語っている。
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ただ、受け取り方としては、儒教が消極的で、キリスト教が積極的、というのはあたっていよう。
この違いが、世界をして、この2000年、キリスト教を儒教よりも繁栄せしめた。そこまでいえるような気がする。