「やせ我慢」を、道徳とか倫理とかインテグリティの文脈で、再評価している。
小林秀雄が、やせ我慢を「私情と公道との緊張関係の自覚」と定義した。
田中一弘教授は、「先義後利を貫くには強烈な『痩せ我慢』が要る」と言う。
迷ったら辛い道を行くのも、やせ我慢。
丸紅が、「正義と利益のどちらかで迷ったら、迷わず正義(integrity)を取る」のも、やせ我慢。
そのやせ我慢って、結局は自分の、弱い、スケベな、現金な、俗物のココロを、否定すること。
それって、要するに克己。自分に打ち克つこと。
って考えたりして、やせ我慢の定義を3つくらい考えている。
- 「優美なる克己」
- 「誇り高き自己抑制」
- 「美学に基づく欲望の否定」
ChatGPTに訊いたら、「自己統御」って言葉も教わった。
上記3つの真ん中の「誇り高き自己抑制」を、「誇り高き自己統御」に変えようかな。。
「美学に基づく克己」もいいけど、「克己」には、誰かにやらされてではなく、自分で自発的にってニュアンスがある。
だって自分で自分に克つのですから、自律的で自発的な営み。やられて自分に克つってのは、ちょっとそれ自体矛盾・自家撞着を孕んでいる。
要するにやせ我慢ってのは克己ということなのですね。