『戦艦大和ノ最期』の著者・吉田満。
帝大法科から学徒出陣し,沈没する大和より奇跡的に生還した後,戦後は日銀に勤務。
27歳の時,東大グランドで運動中,サイダー瓶を開けようとした際,破裂した瓶が眼に刺さったため右目を失明。
その直後の感想:
「まず,事の重大さを直感した。失明? 間違いなし,とうなづいた。
では予感があったか? 何もなかった。予感めいたものさえもなかった。
しかも,他愛もない遊びの最中に,これほどひどい事件が起きようとは,そのとき,何と言うか,人生が,柔軟自在な姿で,目の前に展(ひら)けた。
幸運に恵まれた今までの半生,その極致だった戦争の体験,その後も順境をのぼりつめた最近の生活,いつの間にかしみついた人生への馴れ馴れしさ,いわば爛熟ともいうべき心の動き――
こうした一連の心象がありありと浮かび,反射的にそれと対比して,人生の真骨頂が,絶妙な呼吸とさりげない身振りで,眼前にあった。
砂浜に立ってあの大波がひたひたと足を洗うように,いかにも容赦ない人生の波が,この身を洗っていた。
それだけのことが,ページをめくるほどの速さに胸の中を走りすぎた。
そして僕は,低く声に出して呻った。なるほど,というか,やられた,というか,人生の新しい味に,悪くない気持ちで感心していた。
ここで思わず一声呻ったということが,その後もついに頭の血を燃え上がらせずに終わったらしい。
事の重大さは意識しながら,何となく人ごとのようなのんきさを持ち続けたのも,そのためらしい。
我が身の不幸より先に,人生の驚きの方が,心をとらえたわけだ」
(『病床断想』,吉田満著作集下巻所収)
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彼は敬虔なクリスチャン。この27歳のときの失明事故は、クリスチャンになってから2年めの出来事。
とんでもない事故に出逢って、ここまで透徹した眼で自分を、運命を、そして人生を見つめることができるだろうか。
戦時体験、特に戦艦大和の体験がなければ、できることではなかろう。
私が吉田満を尊敬するのは、この一節があるからです。