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阿部さん、生きていて。

2011年03月20日 | Weblog
実家を作ってくれた棟梁の阿部さんは引退後福島にある実家の新地へ退いた。


父と母、そして親戚ぐるみでお世話になり長い年月お世話になってきた。

実家の棟上げの日、私はまだ4歳ぐらいだったけど骨組みばかりの家に作業用のライトを照らし

紙皿にお菓子を入れてみんなで楽しくお祝いした日の楽しさを鮮明に覚えている。

父と母はいつも阿部さんがこの家を建ててくれたということを誇りにし、子供たちに

誇らしげに語っていた。

確かに地震が来てもほとんど揺れも感じなかったし頑強な造りであったようだ。

でもそれを本当に知ったのは都市計画道路対象地区で立ち退くために実家を

壊した時だ。

私は自分が育った家が粉々にされるその前に知り合いの大工さんと一緒に行ってもらい

利用できる限りの材料は持ち帰りたいと無理を言った。

私は2畳ほどしかなかった父の書斎兼、母がズボンのすそ直しのパートをするために使っていた作業台の一枚板を

抜いてほしいと頼んだがあまりにも頑強に取り付けられていて根元から取ることはできなかったので丸鋸で切断し

今は私の部屋の机になっている。

それから私の部屋の本棚の板も切ってもらい持ちかえった。

取り壊した後も釘が刺さったままの柱や根太をそれでもいいと大工さんに拝み倒しキャリアに積んで持ち帰った。

粉々になった家の材料をそんなに持ち帰ることはできないとわかっていたけど

それでもこれが全部廃棄されてしまうのかと思うとなんだか辛くて暫くその場にいたのを覚えている。

色んな思い出があの時の自分には蘇っていたと思う。


知り合いの大工さんは実家の造りを「本当にいい仕事をしている」と感嘆していた。

私は幼い時から阿部さんにはそんなに会っていなくても阿部さんが作った家なら大丈夫だと思っていた。

それだけの信頼を阿部さんに対して両親は抱いていたのだろう。

それからも何度も何度も阿部さんは家に来て家族ぐるみのお付き合いをしていたし何かあればすぐリフォームもしてくれた。

私が家を買った時、壊した実家の古材でリビングが覆われていた。雨に濡れて材料が痛むのが嫌で埃臭い古材を暫く

家の中に入れて畳の部屋にブルーシートをひいて仕事から帰ってから自分のベッドの飾りをジグソーを使ってその古材で作ったりしていた。

子供たちからはせっかく新しい家に引っ越したのになんでこんな汚い木材を家に入れるのとヒンシュクを買い、

でも今は子供たちの部屋の本棚となり倉庫となって生きているものもある。


その阿部さんが見つからない。



忘れてた。。

2011年03月20日 | Weblog
地震があった翌週の火曜日、会社にはほとんどの人たちが来れずにいて

社員食堂は機能しなかった中で課に駐在しているある混載業者の男性が

「自分たくさんおにぎり買ってきたんで、、、遅れましたけどホワイトおにぎりです。」と言って

配ってくれた。ほかの業者の男性も電車のダイヤが乱れる中わざわざ寄り道してホワイトデー用のクッキーを買いに行ってくれていたらしい。

そんなみなの心遣いにとても感動していた。

課のお男性からも少し遅れのホワイトデー、いつもなら箱でみなさんにって言ってくれてたけど

今年は一人ひとりに配ってくれてなぜか私だけ吟醸ヌーヴォーと書かれたむき出しの日本酒ボトル。

みんなの笑いを誘ったけどとてもあたたかい空気が流れていた。

いつ電車が止まるかわからない状況の中、本当にありがたかった。

そして今日もジムの人がQ-ちゃんづてにホワイトデーのケーキを渡してくれた。

バレンタインの日は突然の大雪であわてて閉店間際のシャトレーゼまで自転車で行って飛び込んだっけ。

ジムについたら全身ビショビショで練習着もビショビショで練習もできず会長に皆へと言づけることしかできなかった。

印象に残る日だったけどでもそんなことはすっかり忘れていた。

少し遅めのホワイトデーのケーキはいつも以上に心に沁みた。

旦那さんの遺品からホワイトデーの贈り物と思われる指輪が見つかったというニュースを見て

まだまだ痛ましい被害は増えているのだと思い涙が出た。