たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

白鳥塚古墳の被葬者の再考 その2

2024-09-22 08:06:21 | レイライン
サタヒコの住んでいた場所の近くには、多くの場合もう一つの場所、つまり奥宮があります。

確認していきましょうか



眞名井神社(籠神社奥宮)




飯野高宮神山神社は、猿田彦命、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭神としています。

伊勢の猿田彦神社境内には、佐瑠女神社があります。ここも、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が御祭神

琵琶湖にある、白鬚神社の対岸には千代神社があります。現在の場所は移転したところのようです。

椿大神宮には、別宮椿岸神社があり天之鈿女命が主祭神です。

大縣神社には、姫之宮 奥宮があります。





まだ他にもあるかもしれません。

これって、サタヒコがアジサハヒメ(アメノウズメ)の亡骸と一緒に移動していたと考えることができないでしょうか?

そして、最後は白鳥塚古墳で一緒に眠りについた。



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白鳥塚古墳の被葬者の再考

2024-09-22 05:56:16 | レイライン
以前、箸墓古墳の被葬者は「彦坐王」と推測しました。

それまでは、白鳥塚古墳の被葬者も「彦坐王」と考えていましたが、違うでしょう。

白鳥塚古墳ですけど、

「南北方向に主軸を持つ二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されている。」

とのことです。つまり、二人埋葬されているわけです。

一人は、サタヒコでしょう。



もう一人を、彦坐王と考えていましたけど、亡骸を再度移動させて箸墓古墳に埋葬したとは

考えられないこともないけど、違和感を感じます。

尾張戸神社古墳から箸墓古墳に移動したのかもしれない。

ちなみに、尾張部神社古墳には棺はあるのかどうかは,現時点では明確に確認されていないそうです。

おいらだいぶ前に、棺の中はからっぽだったという話を聞いたことがあるけどあれは何だったのだろう?

気を取り直して、尾張部神社古墳から、箸墓に「彦坐王」の亡骸が、移動したとすると、

白鳥塚古墳のもう一人の被葬者は誰でしょうか?

もしやと思い、広沢神社(広沢天神)からの位置を調べると、ほぼ真北に大碓命墓がありました。


ですが、少し誤差があります。50mほどでしょうか?

逆に、大碓命墓から真南に線を引いてみます。



広沢神社(広沢天神)より東に50mほどを通ります。

もしかすると、一の鳥居かな?確かめないで勝手に想像してはいけませんね。



なかなか時間が取れないので、訪問することは出来ません。

このことは棚上げにしておきましょう。

ちなみに、猿投神社西の宮は、猿投神社東の宮からの冬至の日の入りのライン上にあります。







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京都御所

2024-09-16 09:03:46 | レイライン


一度訪問したことがあります。

hpはこちら


平城京のことを調べていて、「そういえば、京都御所について以前書いたことがあるなぁ」と。

ありました。こちらです。

気になったので、もう一度レイラインを調べてみました。



伊久良河宮からの冬至の日の入りのラインです。


京都御所を通ります



引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平安遷都(延暦13年・794年)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所は、もと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半ば)から北朝側の内裏の所在地として定着し、明治2年(1869年)、明治天皇の東京行幸時まで存続した[6][7]。明治以降は京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。


土御門内裏跡付近を通りますね。


推測ですけど、このレイラインができたのは4世紀中ごろかもしれない。

または、日吉大社を起点とするレイラインとすると(同じラインですが)その時代以降なのですが

日吉大社の出来た年が推測できませんでした・・・

どちらにせよ、現在の土御門内裏跡付近にサタヒコたちの関係する何か特別なものがあったと考えるのが

しっくりとくると思います。

御所の鬼門にあたる猿ヶ辻はそこだけ築地塀が凹んでいて、これは鬼門除けを示すのだそうです。

御所を守護する日吉大社の神使が猿なのだそうです。

これって、サタヒコ(猿田彦)のことかなぁ。。。



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平城宮

2024-09-15 08:55:22 | レイライン


時代は、
............................................................................
707年 元明天皇(女帝)が即位する
710年 平城京に都をうつす
712年 「古事記」が完成する
...........................................................................

サタヒコの時代とは400年ほど違います。

ですが、レイラインがあります。


白鳥塚古墳の棺の場所と思われる場所から冬至の日没を見ましょうか



平城宮第一次大極殿を通ります


距離は、およそ130km

サタヒコの時代の技術がまだ引き継がれています。驚きです。

誰が測量したのだろう?サタヒコの時代の測量士たちが後に景行天皇に仕え

武内宿祢と呼ばれるようになったと推測します。

その、子孫でしょうか?

平城京の時代のことについては詳しくありません。コメントは控えます。

あえて言うなら、藤原不比等が関係しているのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PS  後からふと思ったのですけど、サタヒコの時代、もしくはもう少し後に、この場所に何か重要なものがあったのかもしれない。

それが,400年後まで存続していて、第一次大極殿をその場所に上書きするように建てた。

そして、平城京がその周りに出来たと考えたほうが現実的かもしれません。


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箸墓古墳の被葬者は誰

2024-08-13 16:51:53 | レイライン


最初は、倭姫の古墳かと思っていたけど、違いましたね。

改めて、箸墓古墳からのレイラインを見てみましょうか



鏡作坐天照御魂神社を通ります。

なので、鏡作坐天照御魂神社に関係する人。

そして、斎宮の特異点からの春分の日の日の入りをもう一度調べました。

斎宮の特異点については、こちらこちらを参考にしてください。

前回は、箸墓古墳のくびれ部分から計測していますけど、鏡作坐天照御魂神社のレイラインは

後円部の真ん中からの測定なので、そちらが被葬者の場所かと思います。

それから、この時代の測量者たちは、春分の日のレイラインを、

その日の前の日に測定をしているようなのです。

春分の日のレイラインは、およそ4年でほぼ同じところに戻ってきます。

調べてみると、今年ではありませんでした。2026年の3月20日の春分の日です。

そして、その前日の特異点からの日の入りは



後円部の真ん中を通ります。

被葬者は、サタヒコと関係の深い人物と思われます。

箸墓古墳から見た、茅原大墓古墳のレイラインは、真ん中より少しずれます。


これはどういうことかというと、

茅原大墓古墳は、そこから見たレイラインの上に箸墓があるということ。

つまり、箸墓より後に設計されたということです。

なかなか建設許可が下りなかったんでしょう・・・・(笑)当然でしょうね。

さて、これだけの事実をあわせもつ人物は誰?

なかなか答えが出ませんでした。でもわかりました。

彦座王でしょう。

おいら、あまりにも白鳥塚古墳を意識しすぎていたようです。

以前、このように書いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「南北方向に主軸を持つ二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されている。」

とのことです。つまり、二人埋葬されているわけですよね。  ”
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彦坐王は、いったん白鳥塚古墳に埋葬されたかもしれません。

しかし、その後箸墓古墳に移動したと考えると、すべてのつじつまが合います。

それをやったのは、景行天皇と思います。

偉大な、おじいちゃんですからね。


これで、奈良の気になるレイラインは大まかに調べることができました。

まさか、箸墓古墳の被葬者が彦坐王とは思いませんでした。

いつものことですけど、また新しい事実が分かると、今まで調べたことが違ってしまうこともあります

それを繰り返しています。

でも、その結果、だんだんと精度が上がってきているならば嬉しいな。
















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茅原大墓古墳の被葬者

2024-08-13 12:28:08 | レイライン
西殿塚古墳の被葬者は、ヒバスヒメと思います。

そこと、茅原大墓古墳を線で結ぶと、行燈山古墳と渋谷向山古墳があります。

でも、よく見ると行燈山古墳は後円の真ん中を通ります。

渋谷向山古墳は、くびれの場所を通ります。

このラインは、被葬者の場所を意味しているのでしょう。なぜ場所が違うのかはわかりません。

どちらにせよ、ほぼ同じ時期に作られているようです。


箸墓古墳も同じ時期なのです・・・訳が分からんくなってきた・・・

茅原大墓古墳は、帆立貝方古墳という形。


調べると、前方後円墳として築造が許されなかったことのようです。



分丘長 86m これも築造時期は同じころ。

ヒバスヒメは、垂仁天皇の妃です。しかし、垂仁天皇は、彼女の父親である彦坐王の死後に

美濃にやってきて、彼女を妃にしています。おそらく、美濃は侵略されたのだと思います。

狭穂姫(サホヒメ)命は、架空の人物。サホヒコ=伊勢津彦を伊勢から追い出したのは天日別命。

垂仁天皇本人、もしくは兄弟かもしれません。

295年にホムチワケが出雲に来ています。しばらくして倭姫がサタヒコの元に来ています。

ホムチワケは、架空の人物。

サホヒコとサタヒコが、奈良に行って垂仁天皇を武力で脅したと推測します。

ヒバスヒメは人質のようなものなので、武力衝突はなかったかもしれません。

包囲網を作ってジワリと締め上げた?

それに負けた、垂仁天皇は交渉に使者を出した。

それが、ホムチワケの物語ではないでしょうか?

倭姫は、人質としてサタヒコの元に来たのだと思います。

でも、姉の子供なので優しくしたみたいですね。

詳しくは、こちら参考にしてください。   

話が長くなりました。

そういうことで、茅原大墓古墳の被葬者は、垂仁天皇とすると、

二つの古墳は倭姫と景行天皇ということになります。

大きいほうの渋谷向山古墳の被葬者が、景行天皇でしょう。


行燈山古墳は倭姫になります。








崇神天皇は、桜井茶臼山古墳と思います。

すると、箸墓の被葬者は誰?







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ホケノ山古墳

2024-08-13 09:56:46 | 歴史



全長約80㍍とほかの古墳と比べるとやや小さいですね。



おそらく、この地域では、最古の古墳ではないだろうか?

レイラインは、見つかりません。



もしかすると、被葬者は開化天皇(かいかてんのう)かも?



開化天皇の生誕は200年ごろと推測。



妻は竹野姫。彦坐王の母親です。竹野姫は、後に丹波に帰っているようです。

崇神天皇の母親は伊香色謎(いかがしこめ)命で、別の人のようです。


サタヒコの母方(丹波)の系図


一御子・天香語山命
二御子・天村雲命
三御子・天忍人命
四御子・天戸目命
五御子・建斗米命
六御子・建田背命 = 由碁理(竹野姫の父親),

                    ↓

七御子・建諸隅命 (川上摩須)    丹波竹野媛(姉もしくは妹)ーーーーー開化天皇  
                                  ↓                  

八御子・倭得玉彦命   川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)ーー彦坐王    (兄) 崇神天皇          
                              ↓ 

九御子・若都保命                  サタヒコ=朝廷別王 
      ↓                     ↓ 

   高材比売(たかきひめ)  ーーーーーー     迦邇米雷王

こちら参考にしてください



三輪山がきれいに見えます


箸墓古墳もすぐ近くです

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三輪山 登拝(とはい)

2024-08-12 17:39:20 | レイライン


登ってきました。


ホケノ古墳から見た三輪山です。

HPはこちら

受付を済ませ、タスキをもらい首にかけて登ります。

撮影禁止なので画像はありません。



奥津磐座(おきついわくら)が頂上で、標高が、467.1m 

意外と広いです。静かで、すずしい。。。

おいら、7人目ぐらいで到着。1時間ぐらいかかったかな。

足腰鍛えてない人は、少しきついかもしれません。

驚いたのは、はだしで登る人がいること。

どうしてはだしなのか聞いたら、履物をはくのは神様を穢すことになるとのこと。

おいらはそうは思わないけどね。

それはともかく、いつか登りたいと思ってたから満足です。

レイラインです。



春分の日の日の出が何処を通るのか調べたら



三重県多気郡明和町斎宮の竹神社を通ります。でも、この場所は引っ越してきた場所です。

以前は、もう少し北にありました。詳しくはこちら。

下山後に、大神神社 宝物収蔵庫に行きました。

そこには、出土したものから3世紀の中ごろにはこの地があったのではないかというようなことが

書かれていました。

おいらの推測では、彦坐王生誕は、230年ごろと思いますので。この地に来たのは、父親の開花天皇

ではないかと思うのです。

何処からかというと、やはり九州でしょう。

彦坐王の母親は、丹波からきています。

単純に考えると 九州→丹波→奈良となりますけど、どうなのでしょう?













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茅原大墓古墳のレイライン

2024-07-28 16:06:23 | レイライン


被葬者は、はっきりわかりませんけど、倭姫でしょうか?

レイラインがありました。


なんと、鏡作坐天照御魂神社です。

この意味が分かりません。



さらに

八大竜王 辯財天 大神 龗神神社 遙拝所・・・

八大竜王 は、サタヒコ   辯財天 は、ヒバスヒメ    龗神は、倭姫ではないだろうか?









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西殿塚古墳からのライン

2024-07-28 14:44:18 | レイライン
レイラインではありませんけど、ご紹介します。



箸墓古墳は、このラインから外れます。

これをどう考えましょう?

青色のラインに並ぶ、古墳はヒバスヒメの子である可能性が高い。


今まで、箸墓古墳は倭姫の墓だと思っていましたけど、違うかも・・・

このラインのうちの一つでしょう。

ヒバスヒメの子供は倭姫と、景行天皇。

渋谷向山古墳(景行天皇 山邊道上陵)と言われています。(4世紀中頃~4世紀後半頃)

行燈山古墳(4世紀前半頃)は、  ” 崇神天皇陵 ”  というのが間違いで、これが、倭姫の古墳だろうか?

そうすると、茅原大墓古墳(4世紀末葉頃)は?  垂仁天皇か?  そうすると、順番が違うね。

築造の推定時期が正しいものとすると、

行燈山古墳  (4世紀前半頃)
渋谷向山古墳 (4世紀中頃~4世紀後半頃)
茅原大墓古墳(4世紀末葉頃)

一番古い、行燈山古墳(墳丘長は242m)が、垂仁天皇

渋谷向山古墳(墳丘長300m) 12代景行天皇の陵に治定されているということで、そのとおり。

茅原大墓古墳(墳丘長約86m)が、倭姫だろうか?









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西殿塚古墳

2024-07-28 14:08:24 | レイライン
西殿塚古墳を、google地図で調べると(継体天皇皇后 手白香皇女 衾田陵)と出てきますけど、

違いますね。

前回書いたように、山中大塚古墳の娘のヒバスヒメと考えるのがピタリときます。




行ってきました






案内板


築造時期 これら2基の古墳の築造時期については、これまでの
発掘調査等で出土した初期埴輪からみて、 特殊器台形埴輪を主体と
する西殿塚古墳が先行し、 次に朝顔形埴輪・鰭付円筒埴輪鰭付
円筒埴輪が出現する東殿塚古墳が築造されたものとみられます。 し
かし、出土遺物が示すそれぞれの古墳の時期に大きな隔たりはなく、
埴輪の出現から成立期 (3世紀後半) に連続的に築造されたものと
考えられています。





東殿塚古墳に行こうとしましたけど、ちょいと無理でした。



この場所がおそらく境と思われます。




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燈籠山古墳から見た秋分の日の日の入りの一日前のライン

2024-07-16 13:24:01 | レイライン
前の記事で、中山大塚古墳、燈籠山古墳、西殿塚古墳は、きれいに並ぶと書きましたけれど

よく調べると、違います・・・

googleの地図では、西殿塚古墳の位置が後円部の中心に無いです。

中山大塚古墳と西殿塚古墳の中心部に線を引くと今度は、

燈籠山古墳の後円部の中心がずれてしまいます。

しかも、燈籠山古墳は、向きが東西です。

年代も少し遅いようです。

このことから考えると、中山大塚古墳、そして西殿塚古墳とは、少し離れた関係にあるのかもしれません。

気になるのは、中山大塚古墳から見た西殿塚古墳の方向に何か意味があるのかということ?

もしかして・・・五社神社は?





中山大塚古墳と、五社神社を結ぶと、西殿塚古墳の後円部の中心を通ります。

後円部の中心は、多くの場合被葬者の棺のある場所です。

その、五社神社とは、ヒバスヒメ、サタヒコが、生まれ育った場所と思います。

現在、神社自体は小さいですけど、周りは公園になっています。

このラインはおそらくその解釈でいいと思います。

ですけど、前頁に書いた、松岳山古墳 と、仲津山古墳のラインですけど、やはり難儀しています・・・

春分の日、秋分の日のラインは一日前のラインを使っているということがあるようなのです。

そうすると、ラインがぴたりと合うことがいくつかで見られます。

今回もその可能性を調べたら、燈籠山古墳から見た秋分の日の日の入りの一日前のラインが

ピタリとくるのです。

悩ましい・・・

今後の課題です
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松岳山古墳

2024-07-15 04:42:06 | レイライン
松岳山古墳
大阪府柏原市国分市場1丁目6−21




国分神社(柏原市)を通り抜けた山の上にあります。

夏祭りのようで、何人かの人が準備中のようです。

古墳を見るには、許可が必要とのことなので、氏子さんと思われる方にお聞きすると

入口まで案内していただきました。



頂上まで、登ると



ありました。



立石ですね





穴をアップ


蚊が多いので、早々に退散です。

案内してもらった方にお礼を言うと、「子供のころは、あそこでよく遊んだもんです」とのこと。


レイラインです


なんと、中山大塚古墳の近くの西殿塚古墳からの春分の日のライン上に

松岳山古墳 と、仲津山古墳の二つの古墳が浮かび上がります。

どういう関係なのでしょう?

仲津山古墳(仲津姫命 仲津山陵)は、大和川の下流にあります。




春分の日のラインは特定しにくいので、難儀しました。

おそらく、このレイラインでいいかと思います。

西殿塚古墳は、今までノーマークでしたのであらためて考えてみましょう。

西殿塚古墳(継体天皇皇后 手白香皇女 衾田陵)


中山大塚古墳の北東350mのところにあります。

資料を見ると、時代が 「3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられます。」

と書いてあります。そうすると、手白香皇女衾田陵とは考えにくいです。

そして、時代ももう少し後かと思われます。300~350年ぐらいでしょうか。

こちらこちらを参考にしてください。

中山大塚古墳の被葬者は、サタヒコの母親 (河上摩須郎女命)と思います。

いろいろと調べていると、なんと、中山大塚古墳、燈籠山古墳、西殿塚古墳は、きれいに並ぶのです。青色の線です。

左上に伸びているレイラインは、夏至の日の入りのライン。大和神社を通ります。



右上に伸びている黄色いレイラインは夏至の日の出のライン。

何処へ向かうのかというと


広沢神社(広沢天神)です。ここは、サタヒコの最初の妻である、アジサハヒメ(アメノウズメ)

が、祀ってあるところです。

レイラインの測量者も、アジサハヒメも、サタヒコの母親 (河上摩須郎女命)もみな同じ

丹波から来ていることを考えると、納得がいきますね。

さて、中山大塚古墳、燈籠山古墳、西殿塚古墳が並ぶ青色の線は、何処を通るのか?

色々調べましたけど、わかりません。


さて、順を追って考えましょう。

まず、燈籠山古墳、西殿塚古墳の被葬者は、中山大塚古墳の被葬者の子じゃないのかな?

というより、西殿塚古墳の被葬者はヒバスヒメでは?

燈籠山古墳は、ヒバスヒメの兄弟かも?

そして、松岳山古墳 は、ヒバスヒメの子。

仲津山古墳は、そのまた子。つまり、中山大塚古墳のひ孫になると思う。

佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)とされていますけど、地理的に無理があると思う。



なぜなら、この付近は、古い土地で、崇神天皇や垂仁天皇が住んでいたところです。
                 ps これ間違っています ↑

ヒバスヒメは、岐阜からここに連れてこられたのでは?

倭姫、景行天皇はここで育っていると思います。

その場所を、岡山から船団を率いて、サホヒコと、サタヒコが攻めていった場所と思います。

ですから、その場所にヒバスヒメの古墳があるということは考えにくいのです。

西殿塚古墳の墳頂には吉備(岡山) で制作されたとされる特殊器台が確認されているとのこと。

いかがでしょう?


































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熊野本宮大社

2024-05-01 14:07:00 | 神社




詳しい創建年代は不明であるが、社伝によると崇神天皇65年に熊野川の中洲、現在の大斎原(おおゆのはら)の地に創建されたとされている。



本殿は、写真を撮ってもいいのですけど、SNSなどには載せてはいけませんとのことです。

なので、画像はこれだけですね。

崇神天皇65年という年代が、気になります。

256頃に、崇神天皇即位なのでそれに65年の半分の32.5年をプラスで、おいらの年表に当てはめると、288.5年ごろになります。

291年ごろには垂仁天皇即位です。あくまで、おいらの年表ですけど・・・

つまり、崇神天皇が亡くなったころということになります。

本牟智和気命(ほむちわけのみこと)が、出雲に行っているのが295年ごろ。

その年のすぐ後に、倭姫がサタヒコのところに行っています。

何が言いたいのかというと、「神武東征」とかぶるのです。

それを調べようとして、あちこち行きました。

でも、まだまだ分からないことが多いですね。









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潮御崎神社

2024-05-01 10:33:10 | 神社

本州最南端です。中央に見えるところがその場所です。(オゴクダ浜から撮影)



有料駐車場から少し歩きます。









ようやく訪問することができました。

以前このブログで、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」
に、いろいろと書いてます。参考にしてください。

画像を撮ることを忘れてしまいましたけど、隣に鎮守社として高皇産霊尊が祀られています。

上の画像の左側に少し写っていますね。

この左側には、天照大御神、大己貴命、猿田彦命を祀った祠があります。

おそらく、高皇産霊尊は、彦座王(サタヒコの父親)

そして、天照大御神、大己貴命は、サホヒコ

猿田彦命は、サタヒコ 本人ですね。

たしか、鳥居付近だったと思いますけど、そこから少し小高いところにも祠がありました。



行ってみると、金山彦命が祀ってあります。

おいらは、 金山彦命は、サタヒコとアメノウズメの間にできた子と思います。

ここに祀られていることで、その推測の可能性が高くなったなと思いますけどいかがでしょう?

神社から戻ると、灯台があります。これも画像を忘れました・・・




灯台の上から「静之窟」の場所を探しましたけれど、わからない



違う方向を探していました。もう一度、オゴクダ浜から撮影した画像を見てみましょう。


こちら側にあるようです。降りていく道があるようです。次回ですね。




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