蚕神調査雑感
9月7日(木)前橋地区担当者は新たに情報が寄せられた新規の蚕神調査に出かけました。
N木さんが都合で急遽不参加となったため、N屋さんとY田の二名で、先ずO野功一伝道師が蚕業職員の先輩から引き継いだという資料を頼りに、富士見町横室十二山「赤城神社」から調査開始です。
細く曲がりくねった道路沿いに「郷社赤城神社」の石塔を見つけ、通行に支障のない少し離れた場所に駐車して神社に向かいました。
石の鳥居を潜ると終わりの見えない石段がずっと続いているのが目に入ってきました。辺り一面うっそうと木々がはびこるこれが十二山でしょうか、頭上からはカラスウリの枝が玉のれんのように垂れ下がり、周りからは「ウワンウワン」とやぶ蚊が襲ってきて、半袖のN屋さんはあっという間になん十か所も刺されてしまいました。
漸く頂上に到着して二つ目の石の鳥居をくぐると正面に赤城神社の社はありましたが、O野伝道師からの資料にある手前左手にあるという衣笠大明神は見つかりませんでした。
社の左手に更地になって青草の生えているそれと思しき空き地がありましたので、既に取り壊されていたのかも知れません。
仕方がないので三百段の石段を下って道路に出て、丁度通りかかった男性に「この神社の事に詳しい方をご存知ですか?」とお聞きしました処、とても親切に対応してくださり「多分○○さんだと思います」とのこと。しかし、漸く探し当てた○○さん宅でしたが、残念ながらご本人は不在でした。
こちらの衣笠大明神は改めて別の日にということにし、次はM田リーダーに桐生市在住の職場の後輩から寄せられた情報、粕川町上東田面伊勢の森神明宮内「蚕影山」の調査に向かいました。
こちらの神社は道路に面した場所にあってすぐに分かりました。しかし「蚕影山」を探しましたが見つからないのです。
ここで、経験のない私たちは認識不足からの勝手な思い込みにより大きな失敗をしてしまいました。もっと大きい物を想像していました。「蚕影山」はあったのです。
事の顛末はこうです。
新規調査の難しさを感じつつも、次はM田リーダーが既に調査済みの粕川町中にある阿夫利神社境内の「蚕影山」の調査に向かいました。
この阿夫利神社の「蚕影山」を見てふと思いました。先の神明宮にいくつも並んでいた石祠も台座があればこんな感じだったかも知れないと。
そこで、ご迷惑とは思いましたが、情報提供者のM木様に電話してみました。生憎お留守でして、留守録に名前と用向きを伝言しました。
余り期待はせずに伝言しましたが、程なくして着信履歴にこの番号があったのでと、私の携帯にM木様から電話をいただき、恐縮しながらも事情を説明しました。そしてご親切にも「これから現地へ行ってみますからそちらも戻って下さい」と言ってくださったのです。
やはり目的の「蚕影山」はいくつも並んでいた苔むした石祠の中の一つでした。「これですよ」と言われ、持っていた刷毛で文字らしき部分の埃を払ってみましたら確かに「蚕影山」の文字が見えてきました。「蚕」は旧字の「蠶」でした。
N屋さんと私の驚きと喜びをご想像ください。この苔むした小さな石祠がとても愛おしくなりました。
M木さんとの会話も弾み「報告書が出来上がるのを楽しみにしています」とのことでした。又、さすが熟練者で、虫よけスプレーを携行しておられました。
M木様に心よりお礼を申し上げ、今日予定した最後の目的地、粕川町月田「近戸神社」へ向かいました。これもO野伝道師からの情報です。
近戸神社は現在も六百年の伝統を誇る獅子舞などで有名な地域の鎮守神として信仰されていますのですぐに分かりました。「蚕影山大神」の額は社殿正面上部に飾ってありました。こちらの「蚕」の文字も旧字の「蠶」でした。
念のため神社裏に回ってみましたところ、道路を隔てた向かい側に「粕川村文化財 社家光善寺」の立て看板が目に入りまして、更に石垣の上には「光善寺石造佛群」と「蚕影山神社跡」の立て看板もありました。こちらも調べてみたいものです。
以上が前橋地区担当者の初回現地調査のあらましです。
赤城神社の三百段の石段上りに始まり、通りすがりの地域の方との触れ合いや、情報を提供してくださったM木様とのご縁など、色々なことがありました。
全くの素人がぶっつけ本番の珍道中でしたが、実りも学びもたくさんありました。
今日の行程が一人でしたら多分めげてしまったと思います。複数のグループにしていただけて良かったです。N屋さん、細く曲がりくねった道路の運転大変お疲れ様でした。
次回は長そで着用と虫よけスプレー持参は絶対条件と学びました。 Y田節子記