富岡製糸場世界遺産伝道師協会 世界遺産情報

「富岡製糸場と絹産業遺産群」は日本で初めての近代産業遺産として2014年6月25日付でユネスコ世界遺産に登録されました。

学校キャラバン 館林市立第八小学校での活動報告(10/4)

2023年02月16日 10時32分10秒 | 世界遺産伝道師協会

学校キャラバン 館林市立第八小学校での活動報告

令和4年10月4日(火)館林市立第八小学校で四年生2クラス71名対象の学校キャラバンを行いました。

当校近くには県立館林美術館や日本遺産に認定され白鳥飛来で有名な里沼『多々良沼』があり、豊かな自然に恵まれた場所にあります。

そして来年は開校150年になる歴史と474名の児童が在籍する大きな学校です。

先ず全員で今年四月に赴任されたH校長先生を校長室にお訪ねし、ご挨拶いたしました。

本日の講話は各教室で、座繰り体験は体育館で行いました。

二クラスありますのでH岡さんとY沢さんが交代して講話を担当しました。今月24日に富岡製糸場見学の事前学習であることを踏まえて、どのような価値があって世界遺産になったのか、どこに注目して見学するのが良いのか、又、三か所の世界遺産群との繋がり、座繰り体験との関連について丁寧に説明しました。

製糸場見学が決まっていますので児童の皆さんはとても熱心に耳を傾けていました。

  

座繰り体験はK井さんとS沢さんがそれぞれ座繰り器を一台ずつ担当して、講話担当のH岡さんとY沢さんも空いている時間はお手伝いしました。

お鍋の中で踊るように動く繭から糸が引き出されてゆく様子に皆驚き「えっ不思議」「どうしてつながっているのですか」「いつ切れますか」などと素朴な質問が次々と出てきます。

皆さん、お蚕は育てていないので当然の疑問ですが、H岡さんが持参した写真を示しながら、約二日間休まず連続して糸をはき切るお蚕の生態を説明しました。説明している私たちでさえ、神秘的とも思えるお蚕の一生ですから、児童の皆さんが驚くのは無理ありません。

  

交代で接緒も体験して「あっつながった」「いつの間にか糸が無くなっている」「もう一度やりたいやりたい」などと盛り上がりました。

小枠に巻き取られて次第に厚みを増す生糸にそっと手を触れて「すべすべだー」「どうして濡れているのですか」との声も聞こえました。

  

割り当てられた3・4校時が終了し、体育館に全員集合して、日直さんの「注目、礼」に続き「今日はありがとうございました」と全員大きな声でご挨拶いただきました。

毎年訪問している当校ですが、今年の四年生とは今日限りのご縁ですので「製糸場見学楽しんできてくださいね」と心から願って声を掛けました。

当校のホームページには「学校キャラバンのお陰で、子どもたちは学校での学習と体験学習とを確実に結びつけていました」との記述がありました。有難いことです。

手早く二台の座繰り器を片付けて校長室にご挨拶し、帰路につきました。

本日の担当はH岡誠さん・Y澤朗夫さん・K井拓美さん・S沢美代子さんとY田節子の五名でした。皆様遠路お疲れ様でした。 (Y田:記)

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週末活動支援事業で伝道活動(2/4)

2023年02月08日 10時39分46秒 | 世界遺産伝道師協会

週末活動支援事業で伝道活動

 

令和5年2月4日(土)藤岡市神流公民館で実施した社会福祉法人かんな会 障害者就業・生活支援センター トータス主催の週末活動支援事業で伝道師5名による伝道活動「世界遺産勉強会と繭クラフト作り」を行いました。

伝道師は午前9:30集合し、会場準備の後、事前打ち合わせを済ませ、10:00から開会となりました。

前半は、世界遺産勉強会として「世界遺産 富岡製糸場と絹産業遺産群」についてK原による約1時間スライド説明を行い、4つの構成資産の概要と世界遺産としての価値を知っていただきました。

後半は、参加者が楽しみにされていた「繭クラフトづくり」体験では、M寺、I田、U原の3名が指導を担当し、I川、K原は遊軍として後方支援です。安全を配慮して繭クラフト工作は接着と顔の書き入れのみでしたが参加者は見本をよく見て真剣な表情で作業し、楽しそうな姿に微笑みがわきます。また、参考に用意した「まゆ花」も興味深そうに手にとり写真を撮るなど喜ばれました。

繭クラフトの完成後にはアンケート用紙が配られ、本日の感想が記されました。

「世界遺産の説明聞いて、以前富岡製糸場いったことがあり映像みてなつかしく感じた。クラフトは初めて体験して楽しかったです。」、「K原さんの説明がわかりやすくて楽しく過ごすことができました。まゆクラフトも作ることが出来て良かったです。」、「自分が行った事がある世界遺産+行った事がない世界遺産がモニターに出て来たので良かったです。久しぶりに見れました。いい話ができて良かったです。初めて作ったまゆクラフトはかわいく作ったので良かった。」、「とても勉強になりました。まゆクラフト作りとても楽しかったです。ありがとうございました。」、「今日は神流公民館で繭クラフト作りを頑張りました。」など好評の様子が伝わりました。

 

当日の参加者は急遽予定の半数の7名となってしまいましたが、笑顔あふれる姿を見るとき、伝道活動の意義を再認識しました。

本日の参加伝道師は、I田みち子、M寺清江、I川武男、U原一美、K原実、の5名でした。

(K原 記)

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書籍案内『ここまでわかった 徳江製糸場』

2023年02月05日 16時28分16秒 | 世界遺産伝道師協会

書籍案内『ここまでわかった 徳江製糸場』

 富岡製糸場世界遺産伝道師協会調査研究奨励事業の採択を受け発刊された図書を紹介します。

 徳江製糸場はかつて伊勢崎市曲輪町に立地し、地元では「丸窓の製糸場」と呼ばれ、戦前において当地域を代表する製糸場でしたが、昭和6(1931)年の事業閉鎖以降約90年を経過した現在では、当時の様子を知る人もなく、伝える資料等も限られたことから、その実態については明らかにされていませんでした。

 近年の研究成果としては令和3年1月に「徳江製糸所の研究~新訳・徳江八郎伝~」としてまとめましたが、その後、令和3・4年度「絹ラボ」事業の支援を受けての研究が進み、これ等を通じて徳江製糸場の創業から終焉迄の約半世紀にわたる経営実態等を明らかとすることができました。

 研究の成果として、徳江製糸場は「戦前において富岡製糸場に次ぐ歴史を有し、一貫して輸出用の優等糸や高格糸を生産した伊勢崎・佐波地域を代表する製糸工場」であったことが示されました。

 本書は写真や図表等を多く取り入れることで研究成果の一部を分かり易くまとめ、地域の絹産業の実態を多くの人に伝えることを目的に発行されました。

『ここまでわかった! 徳江製糸場』目次
はじめに
1.徳江八郎と徳江製糸場

2.戦前における伊勢崎・佐波地域の製糸業
3.『徳江製糸場繪葉書』を読む
4.徳江製糸場施設の変遷
 4-1.建物配置の基本構成

 4-2.繰糸場と繰糸器械
 4-3.煮繭場と煮繭機
 4-4.繭関連建物と繭乾燥機
 4-5.製糸場施設の変遷
5.製糸場工女の実態

6.製糸場の経営実態
 6-1.株式会社設立以前の経営
 6-2.株式会社徳江製糸場の設立
 6-3.購入繭の生産地
 6-4.株式会社設立以後の経営
結びに ~絹遺産を伝承する~

(書籍体裁:A5判、本文88P、モノクロ、ガンダレ製本、マットPP加工、令和5年1月23日発行、著者・発行 笠原実)

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日本最初の製糸教婦「西塚梅」の墓を訪ねる

2023年02月02日 11時05分30秒 | 世界遺産伝道師協会

日本最初の製糸教婦「西塚梅」の墓を訪ねる

久しぶりに冬日和となった1月24日、かねてより聞いていた前橋藩主の位牌寺である森厳寺(前橋市昭和町)にある日本最初の製糸教婦と言われる「西塚梅」の墓を訪ねてきました。

近代建築の森厳寺本堂

梅は、文政8年(1825)に川越藩士速水仲助政信の長女として生れ、実弟には初代研業社社長の桑嶋新平と藩営前橋製糸所の開設や富岡製糸場の場長を2度も務めた速水堅曹がいます。

17歳の時に川越藩士遠藤鐘平に嫁ぎ4男2女を生むも安政6年(1859)に夫と死別、慶応3年(1868)4月に藩の移転に伴い、川越から前橋に転居しました。翌年、前橋藩家老の下川又左衛門の勧めにより、前橋藩士の西塚清造と再婚しました。

弟の速水堅曹は、器械製糸技術者であるスイス人のミュラーの雇い入れを決定し、藩の製糸取締役(製糸所の運営責任者)を命じられました。明治3年(1870)6月に前橋藩小参事の深澤雄象とともに日本初の器械製糸所である「藩営前橋製糸所」を設立し、操業を始めました。

 梅は堅曹とともに器械製糸技術をミュラ―から修得し、多忙な堅曹を補佐するとともに、師婦として器械製糸に従事する工女や全国から集まってくる伝習者の指導に当たりました。これは明治時代初期における器械製糸所の工女指導者である最初の「教婦」と言われています。

 その後、明治8年(1875)に前橋藩士時代の速水堅曹の上司であった深澤雄象が士族授産施設として研業社(関根製糸所)を開業した際には、梅は夫の西塚清造とともに参画し、兄の桑新平社長の下で教婦兼工女取締として多くの工女に対して技術指導を行い、器械製糸の普及に貢献しました。

こうした功績により、群馬県から2度にわたり表彰を受けましたが、明治21年(1888)に64歳で死去し東福寺(前橋市三河町)に葬られ、その後、菩提寺の森厳寺に移されて改葬されました。

     西塚家の墓(左:西塚梅の墓石)

西塚家の墓地は森厳寺の奥まった一角にあり、大きい2つの墓石のうち左側が梅の墓石で、側面に梅の履歴が刻字され、裏面には速水堅曹(書)の追悼歌(和歌)である「世の人乃めでし色香能 をふれども ちりても匂う 梅の乃木のもと」と刻されてありました。

もう一方の西塚家代々の墓石の前には一対の灯篭があり、遠藤鏘平と彫られてありますが、これは梅が西塚清造と再婚する前の遠藤鐘平・梅夫妻の次男が寄進したものです。

遠藤鏘平(前橋藩士で役職は書記頭取)は、当時、横浜に赴任していた初代全権駐日イタリア公使のラ・トゥール伯爵が、良質な蚕種を大量に輸出している島村の訪問を経て、良質な提糸 (生糸)「マイバシ」の生産地として知られる上州前橋を視察のため訪れた際、藩の護衛兵80人を率いて駒形(現前橋市駒形町)郊外の藩境に公使一行を出迎え、前橋城まで護衛の指揮を執りました。この時の模様は「イタリア公使のラ・トゥール一行の上州視察錦絵」に描かれています。

 因みに現在、西塚梅の子孫としては、当協会の会員であるN塚晶彦氏(埼玉県東松山市在住)とK林春樹氏(埼玉県久喜市在住)の二人が伝道師として活動しています。

            (町田 睦 記)

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