富岡製糸場150年を俯瞰する
高崎商科大学公開講座で富岡製糸場150周年記念講座「富岡製糸場開場150年―改めて学ぶ群馬・埼玉の絹産業遺産群―」が開催されています。7月9日に高崎商科大学4号館433教室において『富岡製糸場150年を俯瞰する』と題した講話を行いました。折角の機会なので、いくつかの視点を抽出し報告させていただきます。
1.はじめに
世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」を代表する富岡製糸場については、官営模範工場・和洋折衷の木骨レンガ造り建物・フランス積み・トラス構造・お雇い外国人・工女の活躍などを中心に語られますが、周知のとおり製糸場としての操業期間115年間の8割の期間は民間工場でした。また、官営期の21年間の中でブリュナをはじめとするお雇い外国人のいた期間は明治8年12月までで開業から3年数か月間であり、富岡製糸場150年を俯瞰するとき、いわゆる「ブリュナの時代」はほんの僅かであるにも関わらずその印象の強さ故にそれがすべてであるかの如く伝わる現実もあるようです。製糸場草創期の意義は大きいものの、これのみでは富岡製糸場が果たした役割を正しく伝えられないことも事実です。そんな思いを胸に抱きつつ話を構成しました。
また、官民を含めた4経営者は製糸場経営の方向付けをなすものの、その実務を担った所長の果たした役割も忘れてはならない視点です。27代23人が所長として活躍しますが、中でも気になる人物として初代所長の尾高惇忠、官営期において民間経営を目指した速水堅曹、三井期の最初と最後及び原経営期初期を担った津田興二、そしてなんといっても最長期間の所長を務めた大久保佐一などが目に留まります。
ここでは製糸場経営や製糸機械の変遷とその社会背景などに目を配りながら富岡製糸場150年を俯瞰します。
2.官営期 ~西洋技術の導入と咀嚼~
ブリュナの時代は西洋技術の導入期であり、後の日本の製糸業に大きな影響を及ぼしますが、その背景には日本人による技術の咀嚼が相まって器械製糸の全国普及へとつながります。言い換えると江戸時代に育まれた日本独自の技術的蓄積があってこそ西洋技術の咀嚼が可能となったと考えます。
また、模範工場としての全国的な普及は明らかにされていますが、官営期の全ての期間において模範工場の役割を担っていたわけではないことも大切な視点となります。なかでも速水堅曹による民間的経営は明治14年頃には始まっており官営工場=模範工場といった単純な図式ではなかったことも確かです。
3.三井経営期 ~経営の衣替え~
明治26年に三井へと経営が移り民営化しますが、官から民への移行により直ちに経営が一変したわけではありません。むしろ三井経営期の9年間をかけて官から民への経営実態の移り変わりを見ることができます。
2つの視点を挙げてみました。
一つ目は工場設備の改良です。まず繰糸器に着目すると設備規模の拡大と繰糸法の変化が挙げられます。民営化後の初期は従来の2口共撚式を50釜増加させますがこれは官営期からの量的拡大であるものの質的には継続であるのに対し、明治29年には第二工場を新築し繰糸器械を御法川式4口ケンネル式(煮繰分業)とした量及び質的変化をもたらし、民営化としての転換と捉えられます。また、量的拡大は工女数の増加を伴い寄宿舎の新設に併せ立地位置(東置繭所の北からブリュナ館の西へ)の変更により作業動線の効率化も指摘されます。さらに、明治32年以降は官営期以来の2口共撚式を3口ケンネル式(煮繰兼業)へと順次移行し同34年には全ての繰糸器がケンネル式となり民営化への衣替えがなされます。この間には揚返機を含めた技術の更新が行われました。
もう一つは生糸輸出の変化です。明治13年より速水堅曹による同伸会社を経由した直輸出が継続し、輸出先は欧州中心であったものから明治30年以降は全て米国向けへと転換し、輸出商社も同伸会社から横浜生糸合名や三井物産経由に切替わることはまさに民営化移行による変化を物語るものです。
以上2つの視点からも三井経営期は実質的には官から民への経営移行期とみることができます。
4.原経営期 ~製糸業の隆盛期~
明治35年に三井から原合名に経営が移行します。経営移行後の3年間は三井経営期の所長津田興二が所長を継続しますが、明治38年に原合名の生え抜きの所長となる古里時待の就任と共に大久保佐一も富岡製糸場に赴任します。実質的な原経営期の始まりとなります。時代は日清・日露戦役を経て日本が国際舞台へ登場しますが、時を同じくして日本蚕糸業の発展・隆盛期へと移ります。それを支えた基盤が良質繭への取組みです。養蚕組合(特約組合)の奨励や養蚕指導員の派遣などによる原料繭製造の改善に加え、一代交雑種の開発と普及が明治44年から富岡製糸場を軸に展開されます(この時の所長は大久保佐一となります)。なかでも一代交雑種の開発と普及は世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の4構成資産をつなぐもので良質繭の大量生産技術(一代交雑種と養蚕の複数回飼育)にほかならず、ここにおいて群馬・埼玉両県の蚕種・養蚕農家の果たした役割を知ることができます。
また、これに加え更なる良質生糸製造に向けた取り組みとして富岡製糸場における製糸技術の改良があり、大正6年頃からの繰糸法は4口ケンネル式と沈繰(羽前式煮繭鍋)による煮繰分業へと移行します。
その間、生糸需要国アメリカの市場の変化(レーヨンの急拡大と生糸需要の変化は靴下用生糸需要へと移る)は更なる生糸の質的向上が求められ、糸条斑検査を中心とした生糸格付の細分化(商標信頼から第三者格付へ)も行われ、これに対応すべき製糸技術はこれまでの普通繰糸機から多条繰糸機へと大きな変革が生じます。富岡製糸場では御法川式多条機を基に独自の多条機開発を進め昭和6年にTO式多条繰糸機の本格導入に至ります。この頃は世界恐慌の影響による生糸市場の暴落は回復せず日本の製糸業は淘汰されます。また、その後は満州事変や日中戦争を経て太平洋戦争へと突き進むなか、昭和14年に片倉製糸へと経営が移ります。
原経営期は日本の蚕糸業隆盛期の先導役として開発した顕著な良質生糸の大量生産システムは世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の本質を示しています。
5.片倉経営期 ~戦後の製糸業~
昭和14年の経営移行後の社会状況は戦時色が濃くなりやがて太平洋戦争に突入し、対戦国アメリカ向け生糸の輸出は急落しほぼ途絶えます。富岡製糸場では昭和16年に全ての製糸機を御法川式多条機に更新しますが食糧確保のため日本の蚕糸業は戦時下統制に組み込まれます。この頃(昭和18年)に富岡製糸場敷地内に建つ皇后・皇太后行啓70年記念碑の建立と富岡製糸所史の編纂が行われます。その背景には「激戦の太平洋戦争の行く末を考え、過去の事績を鮮明に未来につなぐ意図があった」とされています。
昭和20年からの終戦後は戦後の蚕糸業復興に向け技術開発を進めますが、アメリカでのナイロンの普及による生糸需要の低調に加え国内の戦後経済復興に伴う“きものブーム”による生糸の内需拡大が生まれます。
製糸技術の革新は多条繰糸機から自動繰糸機へと移り、昭和27年にK8式自動繰糸機の導入、昭和41年にHR型自動繰糸機の導入により繰糸機械の極みとなり、やがて生糸生産技術の輸出も行われますが、日本の蚕糸業は外国産生糸価格に対抗できず衰退が進み、富岡製糸場は昭和62年に操業停止となります。
その後、片倉工業による製糸場の維持管理が続き平成18年に富岡市による公有地化が完了し、世界遺産登録を経て現在へと至ります。
6.結びに
ここでは製糸機械の変遷とその背景を切り口に富岡製糸場150年を俯瞰してみました。近年では女性労働者の視点からの研究も進みつつあり、新しい知見に興味を惹かれますが各種研究の進展により世界遺産としての価値が一層深まるなか、伝道師の一人として常に研鑽を続けたいと思いました。
(K原 実)