飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

手話で人間と話せるゴリラの“死生観”に胸を打たれる

2014-10-23 08:52:39 | 閑話休題

何気ない動物の仕草
物憂げな表情
屈託のない動作にも

思いは人間を勝るとも劣らない深みを見せる・・・!


知能だけではない心の存在を垣間見る。

心には、生命体の共通するキャパシティーが内在しているようである。

問題は、

表現力の差だけであろう。


それを埋め合わせることができれば、人間とそんなに変わらない。

感情や理性、そして、知性は同じ質のものがあると断定してよかろう。

知らないのは、その表現力に制限があるからだ。

表現力は、脳の処理能力であろうから、それを埋め合わせることで、

結構対話が成立するのではなかろうかと思われる。


気づかないけれども、

人間も心の裡に思う全てが表現できているわけではない。

寧ろ、

その一部に過ぎない。


悶々として湧き上がる思いを、

全て表現できれば、なんとさわやかなことだろうと思うことは、

しばしばある。


人間の脳の処理能力も限度があるからだ。

トレーニングして、慣れて、コツを掴めば、それは上達する。

要するに、学習能力を秘めて創られているのが脳という器官なのであろう。


実際に使用している脳の機能は、3%とも1%とも、あるいは5%とも言われるが、定かではない。

要するに、全部又は大部分ではないことは確かである。

大体は、惰性で生きているわけで、

意識していることは、別、ということはしばしばある。


つまり、上の空で生きている場合も多いということである。

言い換えれば、表面意識の自動スキャンで過ごしている場合が多い。

本然の願い、思いとは別である。


一体、自分とは何か? 

何のために生きているのか?

生まれてきた分けとは、なんだったのだろうか?

ということとは別に、煩悩の渦の中で漠然と生きている場合が多いということである。


それと比べてみると、

純粋に生きている動物の場合、

案外と自分と世界を素直に見つめて居る事が察せられて、

ハタと驚かされるのである。


天与の生命をありのままに生きる。

自然の哲人を動物たちに観るのは一人ではあるまい。

驚いた。

 



手話で人間と話せるゴリラの“死生観”に胸を打たれる

شاهد هذا الحمار ماذا فعل و قل سبحان الله

 

【転載開始】10 9月 2014, 22:56
オランウータンが小さなチーターの母親に(写真)

   写真を見た人たちはまず、メスのオランウータンがカメラマンの前で、人間のようにポーズを取っていることに驚かされた。



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