徒然にふる里を語る

 一市井の徒として、生まれ育った「ふる里」嬬恋村への思いをつづります。

要因

2021-01-31 07:56:45 | Weblog

 先日の湿った雪かきの後、不調を感じながらパソコンに向き合い、会議資料を何とか仕上げたら、腰に付けが回った。パソコンの作業は、腰痛持ちの私には、結構負担となる。短時間で切り上げれば良いのだろうが、始めると時間のことを忘れてしまう。お陰で今日までパソコンから離れざるを得なかった。

 整形外科でレントゲンやMRIを撮っても「明らかな異常はない」と言われる。「でも先生痛いんです」「痛み止めと筋肉の緊張をほぐす薬を出しますから様子を見て下さい」いつもこんな感じだ。整形外科に通院しながら、整体を受けたこともある。

 先日テレビで、慢性の腰痛は、痛みへの不安が要因となるストレス性が多いと、解説していた。脳が痛みの指令を出すようなので、再発するのではないかという不安が、それを誘発するのだろう。

 就寝したところを家内に起こされて、寝ぼけ眼で見たのだが、再発するのではないか、という不安は常にある。これは非常にストレスだ。歩いたり、体操したりと努力をしているが、この年齢になれば、完全に克服することは無理だろう。上手く付き合うしかないだろうなあ。

 先ほど知人のハウスを訪ね、ホウレン草やキャベツを貰ってきた。家内を助手に連れて行った。もうキャベツの苗の準備に入るようだ。

今日はほうれん草の写真です。

 


型式

2021-01-24 14:33:42 | Weblog

 昨夜のうちに、同居する娘の連れ合いに雪かきを頼んでおいた。ここ数日、温かさに誘われて、歩きすぎた。その疲れが出たのか、腰がチョッと重い。腰には神経を使っているが、特に冬場はすっきりしない。

 朝、庭に出てみたが、湿った雪で手を出せば、腰痛が再発しそうで、彼に任せることにした。除雪機は知人から貰ったもので、型式が古く動きが鈍いので、力が必要だ。加えて地面が軽石なので、時々、巻き上げてくる。

 家内から庭を補装したら、と言われているのだが、なかなか踏ん切りがつかない。家も新築して10年も過ぎると、色々不具合も出てくる。最初に水洗トイレの水が出なくなり、部品を交換した。

 先日は、洗面所の特殊な照明が点滅しだし、業者にお願いして、同型のものに交換した。ユニットの一部なので、量販店で購入してという訳にはいかなかった。結局、物によっては、部品が製造中止になれば、そっくり入れ替えなければならないのかなあ。

 流石にそこまでの計算はしていので、成り行きだなあ。

 今季初の大雪でした。春先のように湿った重たい雪です。雪下ろしの苦労が分かる気がします。

 

 


母親

2021-01-23 08:49:54 | Weblog

 パソコンのファイルを整理していると、廃止したホームページ「嬬恋物語」に、病に伏した母親を見つめる記述が何篇か出てきた。十数年経って読み返してみると、長い間反発していたことが申し訳なかった、そんな気持ちになる。

 私の母親は、口うるさく、負けず嫌いで世話焼きだった。母親には子供の頃から「勉強しろ、勉強しろ」と言われた。小学生の頃、通信表が良いと欲しいものを買って貰えた。弟や妹が羨ましがったが、この2人には勉強しろ言ったのを聞いたことが無い。

 戦中、私から見れば伯父に嫁いで、伯父が2人の娘を残して戦死し、母は幼い娘や嫁ぎ先を守るために私の父と再婚し、私が生まれた訳だ。母親にとって、私は家を守ったことの最大の証だったのかも知れない。子供の頃から、お前は長男だから、と言い聞かされた。

 そんな口うるさい母親に反発したのは、自然の成り行きだった。中学に上がる頃は、一日でも早く家を出たいと考えていた。それは叶ったが、家を離れて約10年、帰省するたびに年老いていく母親を見ると、反発の気持ちが少しづつ萎え、結局、ふる里に戻ることになった。

 肺炎で入院した前橋から、家に戻りたがっていた母親だったが、それは叶わず92才で旅立った。私の初めての選挙の2カ月後だった。機会をみて「母親編」として、私の思いを綴った物語を掲載したい。

 親戚の田植えの手伝い。かしこまっている。

 

 


参拝

2021-01-21 09:46:40 | Weblog

 毎年20日前後に別所温泉北向観音へ参拝して、護摩祈祷を受けているが、今年は少し様子を見ようと思っている。非常事態に近い状況で、県外への不要不急と言われれば、それもそうだ。ネットで申し込むことも可能のようだが、出来れば脚を運びたい。

 近場の駐車場確保もあり、8時過ぎに家を出ている。早めに申し込みを済ませ、甘味処で休憩してから護摩祈祷を受けていた。確かに三蜜の状態には違いない。ホームーページで調べると、今年は事前申し込みで、入場制限をしているようだ。

 北向観音の冷気は何とも言えない。嬬恋のマイナス10度とも肌の感じ方が異なる。身が引き締まる、という言葉があるが、正にその感じだ。護摩祈禱が終わると、厄が落ちた気になるのが不思議だ。

 帰路、上田で昼食をとり、スーパーで食材を買って戻るだけだが、充実した一日となる。この日だけは家内と口喧嘩もしない。平穏に生活できることを祈願したのだから、そこは私でも心得ている。

 北向観音


大寒

2021-01-20 09:47:03 | Weblog

 大寒らしく冷え込みの一段と厳しい朝だ。それでも季節は春に向って動き始めている。数日前から庭のフクジュソウが咲き出した。今朝の写真だが、マイナス10度近い中でも、蕾を破ろうとしている。

 桧林の日陰になり、成長に良い環境ではないが、日が延びだし地温が上がってきたのだろう。大寒の朝、黄色い一輪のフクジュソウに接し、改めて自然の繊細さを知ることになる。

 昨日、河津桜の開花がニュースになっていた。同期の区長OB会で毎年旅をしているが、伊豆稲取の河津桜と吊るし雛が最も印象に残っている。11名が健在で、祭りの出店で朝からアルコールに親しみ、ホロ酔い気分で河津桜の並木を散策した。

 あれから何年経っただろうか。映像を見ながら、家内にこの話をしたら、一度くらい連れて行ったら、と言われてしまった。沖縄旅行など、もろもろが話だけで終わってしまったので、負い目は感じている。

 新型コロナウイルスの感染が終息したら連れていくよ、と言ってしまったが、来年できれば約束を果たしたいものだ。

 今朝8時に撮りました。

 

 

 


活動

2021-01-19 08:22:38 | Weblog

 昨日は、久し振りに区内の同級生に会った。新年度の老人クラブ役員を決めて欲しい、という会長の依頼を受け、会員6名の内5名が活性化センターに集合した。館長の指示でホールを使うことになったが、事務員さんが気を利かせ、既に暖房が入っていた。120名以上収容できるホールを5名で使い蜜を避けた訳だ。

 話は15分ほどで終わり、直ぐに解散した。私達の年齢になると、1年経過すると体調が大きく変化することもある。昨年の構想を変更することになったが、お互いの立場は理解できるので、スムーズにそれぞれの役が決まった。これが同級生の良いところだ。

 多分、2年後には地区の会長を出すことになるので、それを前提に決めたが、老人クラブの活動そのものがどうなるのか、見通せない。今年1年は殆んど活動らしいことは出来なかった。地域のボランティア活動さえも控えざるを得なかった。まあ、リスクを考えれば内向きになることは当然かもしれない。

 今日の一枚はトウモロコシの天日干しです。今では殆ど見られませんが、昔はどの家の軒先にも吊るしてありました。翌年の種としたり、牛馬の餌とした記憶があります。冬場、大きな鍋で穀物や大根などを煮込んで、牛馬に与えましたが、トウモロコシもその鍋に入っていました。

 牛馬が人間と同等の時代の一コマです。

 

 

 

 


再生

2021-01-18 08:31:03 | Weblog

 昨日、昔から伝わる地域の暮らしとして、馬鈴薯から澱粉を作る老婆の写真を掲載したところ、そこから派生する「くろこ」についてコメントがありました。隣人から、オンリーワンの郷土料理ということは、以前から聞かされていました。

 私も「くろこ」の再生に取り組んでいる人たちの作業に参加したことがあります。場所は鹿沢の旧憩いの広場でした。その折、力仕事をサボって写真を何枚か撮らせて貰いましたが、ファイルからその時の写真が出てきました。

 

 「くろこ」に関しては、その歴史を含めた詳細が「嬬恋村郷土料理「くろこ」再生プロジェクト」で検索できますので、省略します。いずれにしても、一枚の写真から郷土料理の話まで繋がり、その詳細が検索できるというSNSの凄さを改めて感じています。

 

 


澱粉

2021-01-17 09:20:23 | Weblog

   新型コロナウイルスの感染拡大の勢いが止まらない。都市から地方へじわじわと忍び寄っているようだ。時々、ブログに書いたように、こんな危機的状況でも、政治家の言葉が私達に伝わってこない。以前、西ドイツのメルケル首相を引き合いに出したが、私達が共感できる言葉を発して欲しい。

 今、野中広務さんや後藤田正治さんが健在だったら、この国難をどう切り抜けるか、その手腕を見たい気がする。多分、私達が共に未知のウイルスと戦う橋頭保を築いてくれたと思う。この世代の政治家は、昭和の敗戦を経験し、危機に直面した国家や国民を守る気概や哲学を持っていた気がする。

 政治を批判してもコロナは収束しそうもないので、止めておいた方が良さそうだ。

 話が変わって、何日か前から、昔の人々の暮らしを掲載しています。今日は馬鈴薯で澱粉を作る老婆の写真です。十数年前撮らせて貰いました。私が子供の頃、秋口には隣近所で澱粉づくりを行いました。それを片栗粉として、正月の餅や繭玉づくりに使ったのです。それだけでなく、煎餅として空腹を満たした記憶もあります。

 当時は、馬鈴薯と言えば農林1号か男爵でした。男爵が澱粉を取るには適していました。男爵のホクホク感は澱粉によります。それを大きな桶に入れて、棒で突いて細かく解すと、桶の底に澱粉が沈殿します。ここではミキサーを使っていますが、これだと一人で作業ができるという訳です。

 

 


儀式

2021-01-16 08:22:35 | Weblog

 今日は、昭和30年代の結婚式の様子です。三々九度の儀式の写真ですが、これも私のファイルの中から出てきました。当時、花嫁は実家でその晴れ姿を親族や近所の人たちに披露し、媒酌人に伴われ花婿の家までやってきました。そこで、媒酌人立ち合いも元、結婚の儀式が挙行されたのです。

 三々九度の盃にお神酒を注ぐのは、神官や巫女にかわる就学前の男の子、女の子と決まっていたようです。この写真は、私の両親が人生でたった一度、媒酌人を務めた時の物です。姉と二人で披露宴を見に行ったことを思い出します。後ろに洋箪笥などが見えますが、花嫁が持参したものです。

 酌をする子供は、新郎に近い縁者から選ばれますが、私も叔父の結婚式で、この役を務めたことがあります。生来気が小さいので、非常に緊張したのでしょう。記念に玩具を貰ったような気がしますが、詳しくは覚えていません。

 議員の選挙に出た折は、写真の新郎新婦にもお願いに行きました。

 

 

 

 

 


田植

2021-01-14 15:52:17 | Weblog

 昨日まで4回、昭和30年前後の集落の風景を掲載しましたが、もっとないかと思い、以前のホームページの「暮らしおりおり」を開いてみました。何枚か古い写真が出てきましたが、午前中、ブログを綴り、facebookに連携しようとしたのですが、写真が載りませんでした。

 編集しているうちにゴミ箱に移動してしまったので、別な写真でトライしてみます。サイズなどを変更し上書きをしました。当時の田植えの一コマです。一人は私の母親ですが、何となく雰囲気が似ているでしょう。

 倅の遊びに付き合ってはいられない、と言いたそうです。親類や隣組が助け合って1年の一大イベントを進めました。絆の濃かった時代の一枚です。