徒然にふる里を語る

 一市井の徒として、生まれ育った「ふる里」嬬恋村への思いをつづります。

呆然

2020-08-31 10:00:09 | Weblog

 平成27年4月26日の選挙で3回目のトップ当選を果たした。28日に家内と前橋で買い物をし、帰りにクリニックで検査の結果を聞くつもりだったが、スズランの開店時間前に到着しそうなので、予定を変え最初にクリニックに寄った。

 そこで結果を示され、動揺したが手術は避けられない、と聞き、群馬中央病院に紹介状を書いてもらい、そのまま中央病院に向かった。私よりも家内の方が度胸が据わっているようで、落ち着いているのに驚いたが、私の方は支持者にどう説明するかで頭が一杯だった。

 27日の夜には同僚から議会の構成について相談したい、という電話があった。28日にも電話があったのだが、たまたま親戚に不幸があり、それを理由に話し合いには出なかった。そして、29日に議会事務局長に事情を説明したが、残念そうな表情に救われた。

 30日に後援会幹部4人に家に寄って貰い、事情を話したが、突然のことで全員呆然自失である。不謹慎だが翌朝は完全に2日酔いであった。そして、5月8日の臨時議会で構成が決まったが、私は議会選出の監査委員に手を挙げた。

 1期目の前半に続き2回目である。肝心の議長には期数も年齢も1年上の先輩が就いた。外にも手を挙げた人がいたようだが、私は話し合いに出ていないので、拘束されることは無いと思っていた。

 取りあえずは一区切りがつき、予定通り18日に入院し、翌日手術となった。今思い返しても、過酷な日々であった。

 今朝のシュウメイギクです。昨日とは色違いです。


弱点

2020-08-30 10:19:34 | Weblog

 昨日の続きだが、私自身も選挙に出る以上は健康管理には気を使わなければならないと考えていた。最初の頃は前橋市で、後半は上田市で人間ドックを受けている。特に胃は私の弱点だったので、調子が悪いと思えば、胃カメラを入れていた。

 例年、9月議会閉会後に検査をしていたが、翌年4月が選挙と言うことで、その年は少し遅らせて11月に受診した。その結果は、胃に炎症があるが、若干強めの薬を処方すれば大丈夫だろう、という診断だった。それで4月の選挙に臨むことになったが、3月議会が終わり本格的に活動が始まると、何となく胃に違和感を覚えるようになった。

 まあ、選挙活動が始まると過去2回もそうだが、胃の調子が悪くなることは当然だと考えていたので、深刻には捉えていなかった。しかしながら、選挙事務所開設の準備に来た姉に話すと、検査を受けた方が良い、と強く言われた。普段は反発するのだが、その折は妙に素直に意見を受け入れ、告示直前に前橋の病院で胃カメラをのむことになった。

 その結果は、今まで何回か書いたとおりである。癌細胞が出たこともショックだが、選挙直後で支持者や同僚にどう説明するか、その方が悩ましかった。選挙の告示前に分かっていたのでは、という見方もあったが、解かっていれば選挙には出なかった。

 後戻りができない状況で苦しかったろう、と優しく言ってくれた先輩もいたが、それは考えすぎで、通告されたのは選挙の当選証書を交付された翌日である。そして、通告された日に病院を決め、そこで手術の日程まで決定した。

 野菜作りの話より内輪話の方が面白いでしょう。少し議会活動の内幕をブログりましょうか。

 庭のシュウメイギクが咲き出した。家内がどこからか貰ってきたのだが、庭木の肥料を吸って背丈が伸びて、他の草花を圧迫している。私は切りたいのだが、貰ってきた方が許さない。オミナエシが隠れてしまった。


気力

2020-08-29 10:16:37 | Weblog

  安倍首相が辞意 新聞に大きな見出しが躍っている。昨日の午後からテレビもこのニュースで埋め尽くされた感がある。それほど重大な出来事なのだ。体調悪化で継続困難と判断し、退陣を決めたということだ。

 ここ数日、首相の体調悪化の情報が流れる中で、国民の一人として関心を持っていたが、退陣まで決断するとは思わなかった。「ひるおび」で田崎さんが50%、50%と表現しているのを、半信半疑で見ていた。

 安倍首相を最初に目にしたのは、安倍首相が官房副長官の時代だった。国会議事堂の廊下で偶然すれ違ったが、大勢の記者を従えて歩く後ろ姿に後光が射していた。存在感が半端でない、と思ったものだ。将来この人はトップに立つ、そんな予感がした。志半ばで退くことは無念だろうが、体調を回復して欲しい。

 私も平成27年4月、3期目の選挙の直後にがん細胞が見つかり、どう4年間を全うするか、悩んだり苦しんだ。幸い、抗がん剤治療を受けなくても良い状況で、前半は体調回復に努め、2年後に議長に挑戦するという目標を立てた。これが気力の源泉だった。

 体が万全であれば、もう少し支持者や住民の期待に応えられたのでは、と今でも考える時があるが、その時は、自分なりに頑張ったんだよ、と自答することにしている。

 先日、裏山の畑に通じる道脇で見つけた花の写真です。picture this が「ヤブラン」と識別しました。「花は紫色の小さなもので、穂状に咲く。葉は細長く、先は垂れる」という説明です。

 


補足

2020-08-28 09:36:30 | Weblog

 コメントをくれた人がいるので、一昨日のブログを少し補足する。細原地区の開拓は戦後の国策により、大前、大笹の2,3男を中心に入植が始まった。嬬恋村には北山、中原、大平などの開拓地があるが、細原地域は浅間押しで、中原や大平開拓地などとは地力が違い、営農には厳しい土地であった。

 社会が少し落ち着いた昭和30年に、大前地域の人々が大前開拓農業協同組合を設立し、国有林の払下げに入った。相変わらず食料増産のために田畑の欲しい時代だったのだ。畑の配分面積は約1haで、机上での配分であった。この時の払下げ価格は約12,000円だったが、これは畑の分で、膨大な採草地と評する付帯地の価格が含まれていない。

 付帯地は開拓農業組合名義で払下げを受け、その資金は組合員が工面したわけだが、当時、祖父と父親が資産家の親戚に借金をしたことを覚えている。併せて5万円を超えていたような気がするが、そこははっきりした記憶がない。

 当時の高卒の国家公務員の初任給が5,900円ということなので約1年分だ。その売り渡し通知書も、組合解散手続きの過程で調べたが、出てこなかった。どこかで資料が飛んでいる。払い下げた付帯地は土地ブームの先駆けとして、昭和30年代から40年代にかけて売却され、今、浅間高原の別荘地だ。

 プリンスランド、寿産業、日本興業の一部などが大前の開拓組合が売り払った土地となる。大前と同時期に鎌原地区も払下げを受けているのだが、両地区の払下げ面積を定める基礎として、採草地としての観点から、牛馬の数が基準となり、大前が有料道路を超えて鎌原側に押し込んだ、と聞いたことがある。

 お蔭で、昭和40年代に大前の家並みが新しくなった。これはもう伝説だ。

 桟敷高原 秋の気配

 


開墾

2020-08-26 08:39:45 | Weblog

 朝一番で老人クラブの役員会開催通知を配った。担当が細原地区だが各種行事の中止もあり、久し振りに細原の風景に触れた。戦後の開拓地だが、浅間押しで営農には並々ならぬ努力が必要だった。畜産から始まり養蚕、そしてキャベツ栽培と推移してきたが、現在、農家として残るのは数軒だ。

 入植が一区切りついた昭和30年には、大前地区の有志が国有林の払下げを受け、一鍬一鍬、原野を開拓したが、作れるものはアワやヒエなどの穀物しかなかった。私も夏休みには、祖父が造った掘立小屋に泊まって、開墾を手伝った記憶がある。

 県の成功検査と言われるものがあり、期日前に開墾が完了し、作付けが終わらないと買い戻される条件になっていて、誰もが必死に開墾に取り組んだ。現役の頃、当時の払い下げ価格が知りたくなり、祖父の相続資料を調べた事がある。

 売り渡し通知書の発行が昭和30年3月1日、払下げ価格は9,922㎡で12,708円だった。しかも5年の年譜償還となっている。苦労して払下げ開墾したが、浅間押しの土地が致命的だった。

 現在、区の課題となっている馬踏道地区の共有地の一部も、これが出てくれば一発で解決するのだが、それが見つからない。

 我が家の荒れた土地を見て、昔を思い出した。

 桟敷高原せんべい平 誰が名付けたのだろうか。

 

 


影響

2020-08-24 07:52:31 | Weblog

 キャベツ相場が相変わらず高値で推移しているようだ。農業新聞に一応目を通しているが、入荷量は少ないが高値疲れで動きが鈍い、というコメントがあった。キャベツ生産は嬬恋の経済の柱なので、観光産業が厳しいなか、どこまでこの相場が維持できるか、一市井の徒としても関心がある。

 今年の天候は異常だ。私のように自家栽培用の野菜でも、根腐れに病気と例年になく苦戦している。昨日気付いたのだが、3回目に種を下ろしたモロッコが、サヤが伸びないうちに豆が付いてしまった。梅雨明けの高温と干ばつと推測しているが、これは想定外で、早々に終わりそうだ。

 先日も書いたが、桃太郎も回復しない。熟してくると割れてしまう。これも高温の影響が出ているようだ。まあ、自分で食べる分には困らないのだが、人にやるわけにはいかない。自分で野菜を作り出して十数年になるが、気苦労の多い年になった。

 もういいや、と投げてしまえば楽になるだろうが、そうもいかないので、追肥や消毒と、もだえるのだが、気象条件を覆すわけにはいかない。そうそう、昨日、孫に野菜を送ったのだが、昨年の夏を思い出し、スイカが欲しいと言うので、スーパーに求めに行ったが、スーパーにスイカは無かった。

 仕方なく、チョッとは早めだが、自分の作ったものを入れてやった。私のスイカも病気が出てようやく先の節で生りだしたが、昨年の3割くらいだ。いよいよ、貴重だ。下の孫がfacetimeのたびに「じーじ、スイカ」と言う。これには弱い。

 やはり、精神的に余裕がないとブログも続かない。腰痛が出てPCを避けた。

 飽きずに今日も桟敷高原編 何日目かな。

 


高値

2020-08-20 12:56:33 | Weblog

 お世話になっている方に野菜を届けに前橋に出た。兎に角、暑い、暑い。コンビニの駐車場で休憩したが、車から降りると生ぬるい空気が肌にまとわりつく。嬬恋もここ数日経験したことの無いほど、気温が上昇しているが、それでも内場というものだ。

 朝切りのキャベツと野菜だが、2時間で鮮度が大分落ちたようだ。クール便で送ればよかったが、マスク越しの顔でも、会話ができた方が気持ちが伝わるだろう。できればキャベツは419をと思ったが、手に入らなかった。

 浅間高原の直売所も覗いたが、お盆の期間で売り切ったようだ。まあ、相手は嬬恋のキャベツは美味しいんだよね、と喜んでくれたので良しとする。特に今年はキャベツが高いので助かります、と続いた。

 こんな社会状況で販売は苦戦するのではないか、と思っていたが、長雨で野菜全般が高値で推移している。長雨の後は高温、乾燥、この先どうなるのかな。先日、高温でミニトマトが割れてしまう、という映像が流れたが、私の桃太郎も大分割れてきた。

 これは水が切れなかったせいだと思うが、野菜作りは難しい。毎年、そういいながら秋を迎える。

 桟敷高原の夏 振り返れば、地熱発電調査、メガソーラ計画などが提案されたが、この風景を残せて正解だと思っています。


老婆

2020-08-19 11:18:32 | Weblog

 昨日のブログの続きがあった。朝食を終わって、何気なしに窓を覗くと、何とカモシカが家の坂道を登ってくるではないか。静かに玄関を開け、庭に出ると目の前に彼がいて、親しげな眼差しで私の方を見ている。

 全く動じる気配がなく、私も一瞬追い払いが務めだ、ということを忘れてしまった。我に返り「こら」と怒鳴ると、向きを変えて坂道を歩き出した。土手の上から様子を見ていると、立ち止まって私の方を伺っている。

 デジカメを向けても、平然としている。シャッターを切って再度大声を出すと、流石に走り出した。一昨日、私の庭に飛び込んだカモシカ君に違いない。完全に彼の生活圏だなあ。

 腰に疲れが溜まっているので、カイロプラクティック療法を1時間ほど受けた。そこで会った顔見知りの老婆にこの話をしたところ、門貝では猿にイノシシに熊に荒らされて、もう自分では物が作れない、と嘆いていた。

 一人で頑張って生活しているのに、そこを奴らは分ってくれない。畑や山が荒れれば、住む人の生活圏が狭まり、限界集落へのカウントダウンが加速する。先ずは生活圏に入り込む有害鳥獣対策を何とかしたい。

 今日はカモシカ君です。

 


出没

2020-08-18 11:31:51 | Weblog

 夕食中、直ぐ近くでロケット花火が炸裂した。野猿でも出たかと思って、窓を覗くと黒い物体が、家の坂道を飛び下っていった。私は、一瞬イノシシかと思ったが、マスオ君がカモシカだ、と叫んだ。燐家の畑から我が家に飛び込んできたようだ。前日は野猿が悪さをし、翌日はカモシカか。

 日曜日には、私の散歩道の香ノ木周辺で熊が目撃された。周辺にはトウモロコシが残っている。毎朝、5時頃香ノ木の前を通るのが日課だが、道上の畑に入ったようだ。まあ、無事でなりよりか。

 野猿に熊にカモシカ、獣が人間の生活圏にこれだけ近づくと脅威だ。獣が完全に人間を恐れなくなっている。カモシカも山際の畑で時々見かけるが、様子を伺って逃げる気配がない。

 野猿にいたっては、私が石を持って一歩進めば、一歩後退する、というような状況だ。今まで人的な被害がないのは何よりだが、北村地区は小さな子供たちがいる。昨日の勢いで突進されたら、ひとたまりもない。

 今年は長梅雨で、山の餌も不足しているだろうから、これからも奴らは出没するだろう。現状では取る対策がないが、早い情報の交換が必要かなあ。

   今日は珍しい斑入りのレンゲショウマです。

 

 


風習

2020-08-16 10:08:42 | Weblog

 珍しく家内と2人でお墓参りに行ってきた。ここでは十六日にお墓参りをして、夕方送り火を燃やす風習だ。例年だと、この間に娘と孫を上田駅まで送るのだが、今年はその必要がないので、気の進まそうな家内を連れて畑に出た。

 連日強烈な太陽が射し、気温がどんどん上昇するので、モロッコやナスが一気に成長してきた。根腐れ気味もあるが、キャベツ農家と同じように追肥を施したが、それが効き出したようだ。

 計算外は、追肥により十二分に水分を吸い込んでいた接ぎ木の桃太郎が、勢いを増し暴れ出した。下の段で数が揃えられなこともあり、結果として驚くほど大玉になってしまった。大味でコクが無くよそ様にどうぞ、という訳にはいかない。

 ただ、細原で仕立てて貰った自根の桃太郎とミニトマトはそれなりに実を付けている。水分が切れずに割れもあるが、トマトのコクは残っている。ハウスと違って露地栽培の難しさを改めて感じるが、適当に妥協しないと、次への生産意欲が湧かない。

 先日「ブログを綴る意欲はどこから湧いてくるの、訪問者」と知人に聞かれた。どう答えたら良いか一瞬考えたが「時間があること、そしてボケないため」と回答した。考えてみればトマトづくりと変わらない気もする。

 桟敷高原の遊歩道で最初に撮った一枚、名前を書いたメモを紛失した。