座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆聖書を調べなさい。

2017年06月09日 16時38分19秒 | 聖書
(ヨハネ五・三九欄外注)
ここに「調べる」と訳されたギリシヤ語は、人が黄金を探す時のような、また猟師が熱心に獲物を追跡する時のような、厳しい、綿密な、勤勉な探索を意味する。聖霊の灯火を掲げ、慎重に、みことばの隠れた意味を尋ねなければならない。
聖書は調べることが必要である。その大部分は、注意深い研究によってのみ学ぶことができる。ラビたちが、聖書の一語一語、一点一画に、山のような問題が含まれていると言ったのは正しい。テルトゥリアヌスは「私は聖書の豊かさをあがめる」と叫んだ。神のみことばである聖書の表面のみを走り読みする人は、益を受けない。隠れた宝を得るまで、私たちは掘らなければならない。みことばの戸は、勤勉のかぎによってのみ開くことができる。
聖書は調べることを要求している。それは神によって書かれ、神の印が押され、神によって認可された。したがって、だれがそれを軽率に扱うことができようか。聖書を軽蔑する者は、それを書いた神を軽んずる者である。私たちが聖書をなおざりにしたため、審判の日に私たちを責める証拠として聖書がもち出されることなど断じてないように、注意しなければならない。
神のみことばである聖書は調べがいのあるものである。神は私たちに、山のようなもみがらをふるいにかけて、少しばかりの穀物の粒をより出せとは命じておられない。私たちはただ穀倉の戸を開いて、中の穀物を取り出せばよい。聖書は研究するにつれて深まっていく。それは驚きに満ちている。聖霊の導きのもとで探し求める者の目には、聖書は啓示の輝きをいよいよ増し加え、金、ルビー、エメラルド、またあらゆる種類の宝石を散りばめた巨大な神殿のようになる。聖書の真理のように貴重な商品はほかにない。
最後に聖書はイエスを啓示する。「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」これほど、聖書を読む者を励ますことばがあろうか。主を見いだす者は、いのちを、天国を、そしてすべてを見いだす。聖書を調べて、自分の救い主を発見する者は幸いである。
 
◆聖書を調べなさい。(ヨハネ五・三九欄外注)
ここに「調べる」と訳されたギリシヤ語は、人が黄金を探す時のような、また猟師が熱心に獲物を追跡する時のような、厳しい、綿密な、勤勉な探索を意味する。聖霊の灯火を掲げ、慎重に、みことばの隠れた意味を尋ねなければならない。
聖書は調べることが必要である。その大部分は、注意深い研究によってのみ学ぶことができる。ラビたちが、聖書の一語一語、一点一画に、山のような問題が含まれていると言ったのは正しい。テルトゥリアヌスは「私は聖書の豊かさをあがめる」と叫んだ。神のみことばである聖書の表面のみを走り読みする人は、益を受けない。隠れた宝を得るまで、私たちは掘らなければならない。みことばの戸は、勤勉のかぎによってのみ開くことができる。
聖書は調べることを要求している。それは神によって書かれ、神の印が押され、神によって認可された。したがって、だれがそれを軽率に扱うことができようか。聖書を軽蔑する者は、それを書いた神を軽んずる者である。私たちが聖書をなおざりにしたため、審判の日に私たちを責める証拠として聖書がもち出されることなど断じてないように、注意しなければならない。
神のみことばである聖書は調べがいのあるものである。神は私たちに、山のようなもみがらをふるいにかけて、少しばかりの穀物の粒をより出せとは命じておられない。私たちはただ穀倉の戸を開いて、中の穀物を取り出せばよい。聖書は研究するにつれて深まっていく。それは驚きに満ちている。聖霊の導きのもとで探し求める者の目には、聖書は啓示の輝きをいよいよ増し加え、金、ルビー、エメラルド、またあらゆる種類の宝石を散りばめた巨大な神殿のようになる。聖書の真理のように貴重な商品はほかにない。
最後に聖書はイエスを啓示する。「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」これほど、聖書を読む者を励ますことばがあろうか。主を見いだす者は、いのちを、天国を、そしてすべてを見いだす。聖書を調べて、自分の救い主を発見する者は幸いである。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「このようにして、ふたりの目は開かれ、

2017年06月09日 16時37分07秒 | キリスト教

それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)

エデンで「あなたがたの目が開け」「神にようになる」との蛇の誘惑により、エバは善悪を知る木の実を取って食べ、夫アダムも食べた。その時、二人の目は開かれた。
「目が開かれる」というのは、神から独立して、神に頼らず、人が自分で善悪を判断できるようになったという事だ。

罪が入り、霊が死んで、神との交わりが絶たれてしまった。
そのため、裸であることの恥が来て、恐れが臨んだ。その時から、人は神を離れ神無しで生きるようになった。
「肉」とは、つまり、神無しの、神によらない生き方だ。罪にある人間による考え方、
生き方、価値観だ。神から独立して自分で生きることだ。

神からの独立=人間中心という事になる。肉とは、いわゆる悪行とは限らない。
妬み、憎しみ、泥酔等はストレートでわかりやすいが、道徳的で麗しいもの、感動的なもの、立派なものも、神を崇めず、神無しの生き方であれば「肉」だ。
感動的なヒューマニズムも、根本に神無しであり、神に敵対している。

世界平和、人類愛をうたっていても、神否定だ。
「肉」が改良されて、「霊」的になるのではない。肉はどこまでも肉で、それは捨て去るべきものだ。
自力でなく「御霊によって」御霊に満たされ、御霊の導きに従って歩むことが、答えであり、肉の欲望から守られる。
------------------
目が開き自分が神となり、神どころか誰からの支配も受け付けない罪深い者となった。
自分中心の肉の思いは自分で管理し得ないからだ。
十字架により罪赦された事に感謝し、肉を選ばず、御霊の導きに歩める事に感謝しよう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「このようにして、ふたりの目は開かれ、

2017年06月09日 16時37分07秒 | 聖書

それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)

エデンで「あなたがたの目が開け」「神にようになる」との蛇の誘惑により、エバは善悪を知る木の実を取って食べ、夫アダムも食べた。その時、二人の目は開かれた。
「目が開かれる」というのは、神から独立して、神に頼らず、人が自分で善悪を判断できるようになったという事だ。

罪が入り、霊が死んで、神との交わりが絶たれてしまった。
そのため、裸であることの恥が来て、恐れが臨んだ。その時から、人は神を離れ神無しで生きるようになった。
「肉」とは、つまり、神無しの、神によらない生き方だ。罪にある人間による考え方、
生き方、価値観だ。神から独立して自分で生きることだ。

神からの独立=人間中心という事になる。肉とは、いわゆる悪行とは限らない。
妬み、憎しみ、泥酔等はストレートでわかりやすいが、道徳的で麗しいもの、感動的なもの、立派なものも、神を崇めず、神無しの生き方であれば「肉」だ。
感動的なヒューマニズムも、根本に神無しであり、神に敵対している。

世界平和、人類愛をうたっていても、神否定だ。
「肉」が改良されて、「霊」的になるのではない。肉はどこまでも肉で、それは捨て去るべきものだ。
自力でなく「御霊によって」御霊に満たされ、御霊の導きに従って歩むことが、答えであり、肉の欲望から守られる。
------------------
目が開き自分が神となり、神どころか誰からの支配も受け付けない罪深い者となった。
自分中心の肉の思いは自分で管理し得ないからだ。
十字架により罪赦された事に感謝し、肉を選ばず、御霊の導きに歩める事に感謝しよう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おはようございます。

2017年06月09日 07時11分14秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の聖人の記念日

2017年06月09日 07時10分37秒 | キリスト教

聖エフレム助祭教会博士

306年ごろ-373年

 エフレムは、シリア東部のニシビスに生まれた。子どものころからキリスト教の教育を受けたが、神の摂理に疑いをもっていた。しかしある事件を機に、回心して荒野で隠修士の生活を始め、祈りと聖書研究に専心した。

 当時教会は、アリウス派による異端が広まっていたため、325年にニケア公会議が召集された。その公会議に同行したエフレムは多くのことを学び、エデッサに行った。そこでは、異端説が広まり、歌までつくられ、人々が歌っていた。これに対して彼は、イエスのこと、聖母のこと、祝日のことを美しい詩歌にし、聖歌合唱隊を作って歌わせた。これは人々の心を感動させ、誰もが彼の歌を口ずさむまでになった。彼は、雄弁家でもあり、説教をして回り、貧しい人々を助けた。またペストが流行したときには、献身的にその看護にあたった。また聖書の註解書や聖母マリアの詩などを著わした。エフレムは、キリスト教会ではじめて賛歌を作った人物として知られ、「聖霊の竪琴」とも呼ばれている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆叱 責 と 繁 栄

2017年06月09日 07時09分38秒 | 聖書

正しい道を捨てる者には
きびしい懲らしめがあり、
叱責を憎む者は死に至る。     (箴言一五10)
アメリカのカーター元大統領が日本に来られた時、記者団が質問しました。「あなたのこわいものは何ですか。」「父親です」と答えたカーター大統領は、子ども時代の思い出話をしました。ある日曜日、教会で献金するのだよと一セントもらったカーターは、献金しなかったばかりか、献金皿から一セント銅貨を一つ失敬してしまいました。家に帰って上着を脱いだ時、一セント銅貨二枚がお父さんの目の前にコロコロところげ出ました。クリスチャンのお父さんは、それこそきびしくこらしめてスパンクをしたというのです。彼にとって、そんな涙ながらの叱責をしてくれたお父さんがなつかしく、うれしく、ありがたいのです。
人は、叱られるのがきらいです。自分勝手にわがままに生きていることを真正面から指摘されると、反発したくなります。しかし、叱ってくださる方の愛と真実の前にしゃっぽを脱いで聞き、従い、悔い改める人こそ、成長します。そして、叱責を憎み反発する人には滅びがあると聖書は言います。わがままな罪だらけの生き方をしていても放っておかれる人は、実にふしあわせです。あなたはどうでしょうか。自分を叱る人も昔はいたけれど、今はいないでしょうか。
しかしあなたにも、そしてだれにも、本気になって叱ってくださる方がいるのです。愛しているから本気です。あなたのことを、忘れることも放っておくこともできません。その方は、神です。病気・失敗・挫折・孤独を通して、神は、あなたの心の真ん中まで語りかけられます。きびしいこともつらいことも言ってくださいます。中でも、聖書を通して、私たちに問いかけ語りかけてくださるのです。神を拒否する者には、単なる失敗ではなく滅びが待っています。しかし、神の叱責を喜んで受けてそれに従う人の将来には、希望と平安と豊かな成長があるのです。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

◆主は私たちのために大いなることをなされ、

2017年06月09日 07時08分49秒 | 聖書
私たちは喜んだ。(詩篇一二六・三)
あるクリスチャンには、物事の暗い面ばかり見る傾向がある。神が彼らのためになさったことよりも、むしろ彼らが過去にたどってきた経験を考える。クリスチャン生活がどんなものであるかを彼らに尋ねるならば、不断の戦いと、深刻な苦悩と、悲しい逆境と、彼らの心の罪深さを語るだろう。神が彼らに与えられたあわれみと助けについてはほとんど言及しない。
しかし、健全なたましいをもつクリスチャンは喜びに満たされ、進み出てこう言うだろう。「私は自分のことではなく、私の神をあがめるために語りたい。主は私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。主は私のために大いなることをなされ、私は喜んだ」と。このような経験は、神の子どもが語り得る最上のものである。
私たちが試練を受けることは事実であるが、しかし、試練から救い出されることも同様に間違いない事実である。私たちの心が汚れており、それを知って悲しんでいることは事実であるが、しかし、私たちが十全の救い主をもっており、主がこれらの汚れに打ち勝ち、私たちをその汚れの支配から救い出されることも同様に真実である。過去を顧みるなら、私たちがかつて失望のどろ沼におり、屈辱の谷間を這っていたことを否定することはできない。しかし私たちがそれらの難関を、安全かつ有益に通過してきたことを忘れるのも同様に誤っている。私たちはそこにとどまってはいない。感謝なことに、全能の助け手また導き手である方は、「豊かな所へ私たちを連れ出されました」。
患難が大きければ大きいほど、すべてを通して私たちを導き、今に至るまで保ってくださった神に対する感謝も大きい。私たちの悲しみは私たちの賛美のメロディーを傷つけることはできない。それは、「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ」との人生の歌の低音部にすぎない。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩篇41篇10-13節

2017年06月09日 07時07分11秒 | 聖書


41:10 しかし、主よ。あなたは私をあわれんでください。私を立ち上がらせてください。そうすれば私は、彼らに仕返しができます。


自分の犯した罪のために苦しんでいるのは、自分です。

そのように苦しんでいる自分を見て、自分の弱さを喜んでいる人もいます。

会社などでも、ライバルである自分がくじけると、相手の人が喜ぶのと同じです。

  ダビデは、主に憐れみを求めます。

そしてその一方的な憐れみの故に、自分に罪の赦しを与え、私を立ち上がらせて下さいと願うのです。

そして、主からの一方的な恵みによって、罪の赦しと贖いが与えられた時、彼は立ち上がることが出来るのです。

主によって、立ち上がらせていただくことができるのです。

彼はその時「敵に仕返しが出来ます」と語っています。

彼は、暴力を持って自分を侮った人々に復讐をしようというのではないのです。

主によって与えられた赦しの故に、立ち上がることが出来た自分を見て、敵が恐れおののく様こそ、「主による仕返しだ。」と言っているのです。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コリント人への手紙第一10章4節、5節(エゼキエル書38章)

2017年06月09日 07時05分08秒 | 聖書


「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」

コリント人への手紙第一10章11節、12節
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」


■O:今日のコラム
過去の災害時の経験やデータを生かし、次に似たような災害が来たらこのように備えようと、自治体が対策することがあります。自分自身も自分と同じ失敗を子どもがしなくて済むように、子どもたちに自分の過去の失敗した経験を話し、諭すことがあります。

今日の箇所には、出エジプトしたイスラエルの民の多くが約束の地に入れなかったことが旧約聖書に記され残されているのは、私たちへの教訓とするためである、と書いてあります。同じ罪の弱さを持つ人間として、私たちは彼らの失敗から心して学び、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけ」なければと思います。

『この時点のイスラエルの民は、イエス様の十字架もまだだったし、聖霊を受けていなかったから、御霊による悟りが無かったんだ。…だから、愚かな過ちのゆえに約束の地に入れなかったんだ。』と思いたいのですが、ここには、彼らも『御霊の岩から御霊の飲み物を飲んだ。その岩とはキリストです。』と記されています。私たちと条件は同じなのです。

ヘブル3:19では出エジプトしたイスラエルの民のことを「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」と語っています。不信仰のゆえに、彼らは約束の地に入れなかったと言っています。

「信仰」の定義とはなんでしょうか?心で信じて、イエスを主と口で告白する。アーメン。それは、信仰のスタートであります。すでに信仰をスタートしている私たちは、聖書が語っているように、日々の歩みを通して「救いの達成に努めなければなりません。」(ピリピ2:12)

信仰とは、主イエス様だけに信頼することです。お金やこの世の何かにより頼むことでもなく、また自分自身により頼むことでもありません。主にだけより頼むこと、それが信仰です。主以外に、もし『これがなくなったら困る』と不安になるのものがあるのであれば、私たちは主にではなく、それにより頼んでいることが分かります。聖書ではそれを「不信仰」と呼んでいます。

約束の地に入った者、それはヨシュアとカレブでした。彼らと共にカナンの地を偵察に行った他の者たちは、現実だけを見つめて「無理だ!」と嘆き、主により頼むことをしませんでした。「この地をあなたがたに与えよう」と語られた神の御言葉よりも、自分の考えが上にあったのです。神の御言葉よりもこの世の価値観が上にあったのです。けれども、ヨシュアとカレブは、目に見えることを超えて、主の仰せに聞き従い、主により頼んでいました。これが、約束の地に入れる者の信仰です。

私たちはイエス・キリストを主と告白し、そして御霊が与えられました。けれども、それで自動的に約束の地に入るわけではないことを、旧約聖書が教えてくれています。このイスラエルの民を教訓に、私たちは今一度、自分の信仰を点検し、この世の富、この地上の何かにより頼むのではなく、すべてを治める私たちの主にだけより頼む、この信仰を持とうではありませんか。そして、ともに救いの達成に努めたいと願います。

とこしえに変わらない主の愛の御腕により頼むこと。このことを決心するならば、どんなに大きな平安が私たちを包むことでしょうか。イエス様が与えて下さる平安は、世が与える安心とは違うと語っておられます。やがて朽ちる何かに信頼するのではなく、とこしえに変わらない真実な方により頼む、その信仰を持つことこそ、幸いな人生であると信じます!

「わたしは、 あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)


■A:考えてみよう
私たちは、目に見える所に信頼してしまう弱さを持っています。日々、自分の心をみことばの光で照らし、御霊との交わりの中で、自分が信仰に立っているかどうか、自分は主以外のものにより頼んでいないか、この世のお金や何かを拠り所としていないかを調べることをしましょう。


■P:祈り
聖霊様、私の心の奥深くを探り、私が信仰があると思っていながら、実際は主により頼んでいない部分、御言葉に信頼していない部分を教えて下さい。「御言葉はこういっているけれど…現実には…」と、目に見える所に生きるのではなく、ヨシュアとカレブのように、主の御言葉に信頼し、主の御言葉に生きる信仰を持つ者へと、私を作り変えて下さい。約束の地に入るための信仰を持ち続けることが出来ますように、日々、あなたとの交わりの中で、御言葉の中で、その気付きを与えて下さいますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月8日(木)のつぶやき

2017年06月09日 01時28分19秒 | キリスト教
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする