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ヨシュア記5章1節

2013年06月26日 09時42分15秒 | 聖書

5:1 ヨルダンの向こう側、すなわち西の方におるアモリびとの王たちと、海べにおるカナンびとの王たちとは皆、主がイスラエルの人々の前で、ヨルダンの水を干しからして、彼らを渡らせられたと聞いて、イスラエルの人々のゆえに、心は消え、彼らのうちに、もはや元気もなくなった。


神様が与えると約束してくださったカナンの地には、いくつもの他の民が住んでいました。

ここでは西の方にいたエモリ人のすべての王達と、海辺にいたカナン人のすべての王達ということを語っています。

王達と言いましても、当時は都市国家のようなものですので、その街々を支配していた支配者達のことです。

自分たちの所にイスラエルの民が入ってきたということは、彼らには恐怖でした。

また、その民の主なる神がおられて、彼らを導き、乾いたヨルダン川を渡らせたということを聞いて、おののいたというのです。

自分たちが、彼らによって征服されると思ったからです。

主が民と共にいるということが、力の基です。

教会も、神の御子であるキリストが共にいたもう所です。


◆争いを好む者

2013年06月26日 09時01分34秒 | 聖書

ねじれ者は争いを巻き起こし、
陰口をたたく者は親しい友を離れさせる。(箴言一六28)

聖書は、「ねじれ者」とずばり言ってのけたことばを使っています。
ある時、やりつけないことですが、洗濯をしてみました。洗濯機の中の衣類が全部ねじれて固まってしまい、一つ一つ離すのに苦労しました。そのねじれたかたまりを見て、「ああ、こんなことが人生にあるな」と思ったのです。こじれにこじれてしまった人間関係。――夫と妻がうまくいかず、いつの間にか子どもやほかの家族までねじれに引きこんで、ねじれきってしまった家庭がないでしょうか。職場でも、同じようなことが起こっています。そのような状態は、皆をくたくたに疲れさせるのです。その原因は多くの場合、一人の人の心のねじれなのです。
ねじれた心から、意地悪なことば・陰口・非難・あてこすりが出てきます。アラブのことわざに、「人は、言わないことばの主、言ってしまったことばの奴隷」とあります。口から出たことばはもうコントロールが利かず、人間関係をねじまげ、争いを巻き起こします。心と心が通じない、壁のあるいやな情況にしてしまいます。構えられた無言のようなねじけた態度も同じ働きをしますし、顔つきや動作でも同じことです。頭がよくて実力もある人でも、心がねじけていては何にもなりません。自分の感情や都合で相手を解釈して、一ねじりも二ねじりもするために、友を失い、平安を失い、生きがいを泥まみれにしてしまいます。
人を素直に受け入れ、善意で解釈し、悪をたくらまないまっすぐな心は、愛の心です。また、自分の我欲を突っ張らないへりくだった平和な心です。イエス・キリストは、「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ五9)と言われました。神を知り、イエス・キリストに従う時、私たちは心をまっすぐにしていただけるのです。

 


◆あなたもまた……

2013年06月26日 08時59分38秒 | 聖書

私たちに似た者になってしまった。(イザヤ一四・一〇)

口先だけで信仰を公言する背教者のたましいが、裸で神の前に立った時の運命はどうであろうか。彼はどうして、「のろわれた者ども。離れ去れ。あなたはわたしを拒んだ。それでわたしもあなたを拒む。あなたは姦淫を行い、わたしを離れた。わたしもまた、永遠にあなたをわたしの前から追放し、あわれみを注がないだろう」という神の御声に耐えることができるだろうか。
終わりの大いなる日に、集まった大群衆を前に背教者が仮面をはがされる時、その恥辱はどれほどであろうか。これまで決して信仰を告白したことのない俗人や罪人が、火の床から身を起こし、後ろ指を指すのを見よ。ある者は言う。「やあ、あいつがやって来た。やつは地獄でも説教するのか」と。他の者は言う。「あいつだ。あいつは悪口を言ったと言って私を責めたが、今偽善者の正体を表した」と。さらに他の者は言う。「ああ、あの賛美歌好きの男がやって来た。集会にはいつも出席し、天国行きは保証されたように大言していたあの男だ」と。
偽善者のたましいを滅亡に引きずり込む時ほど、悪魔が熱心になる時はないであろう。バニヤンは『天路歴程』の中で、地獄に引き戻される光景をものすごいタッチで描いている。七つの悪霊が九つのひもで一人の男を縛り、彼が自ら歩いていると公言する天国に至る道から引き戻して、地獄の裏門から投げ入れる。
信仰を公言する者たちよ。地獄の裏門に心せよ。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」あなたの状態を見つめよ。自分がキリストの中にあるかどうかを見よ。自分をさばく時はとかく寛大な判決を下しがちである。しかし、この点において正しくあれ。特に自分に対して厳しくあれ。もし岩の上に家を建てていないなら、家が倒れる時、その倒れ方はひどいことを記憶せよ。
主があなたに誠実と、貞節と、断固たる勇気を与えてくださいますように。この悪い世にあって、あなたが脇道にそれることのありませんように。

 


ヨシュア記4章19-24節

2013年06月25日 12時36分26秒 | 聖書

4:24 「このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである。」


民はヨルダン川を渡って最初の宿営地に来ました。

そこはギルがルと呼ばれていました。

ヨシュアはそこに、ヨルダン川で神の箱を担いでいた祭司の足の下から取っってきた、12の石をたてました。

そしてそれを、主が言われたとおりに記念としたのです。

この記念の石は、2つのことを覚えるための印となりました。

1つは、それを見ることによって、イスラエルの民がヨルダン川を渡る時に、神様がどれほど大きな奇跡の業をしてくださったのかということを、思い起こすためでした。

もう1つのことは、その事実を知ることによって、改めて、神の偉大さを覚えて、このお方を恐れ敬うためでした。

主を信じて従うと言う時に、この2つのことはいつも大切です。

イエス様による罪の贖いを知って、その事実を感謝し、その恵みを与えてくださった神様を、褒め称えて歩むということが、私たちの歩みであるからです。



◆まっすぐに見える道

2013年06月25日 12時31分21秒 | 聖書

人の目にはまっすぐに見える道がある。
その道の終わりは死の道である。   (箴言一六25)

夜、埠頭の道を車で飛ばして、海の中に突っこみ、死んでしまった事件が、何回か新聞に出ていたのを、私は記憶しています。目の前の道がまっすぐに安全に見えたので、突っ走ってしまったのです。私も夜、水たまりが光ってよい道に見えたので、歩いていったら足をとられて泥だらけになった経験があります。
人生航路には、若い人たちばかりではなく、ベテランの教師・親・経営者・役人にも、こんなことがありはしないでしょうか。家庭の問題・人間関係・仕事の面で、死の道へ突っ走ることが多いのではないでしょうか。人の目にはまっすぐに広々と見えるような人生の道でも、実はそうでない滅びの道があるのです。
赤外線写真では、人の目に見えない姿がとらえられるといいます。神を見、みこころをのぞくことができるような心を自分のものにしたいものです。神の前にへりくだり祈れる心・神の前に立ち止まる心があると、いのちの道が見えてくるのではないでしょうか。
人間は、未来のことを計画します。そして、未来のことは分かっているし、自分でコントロールできると思いこみやすいのです。しかし一日たりとも、人間はその将来を所有してはいません。所有者は神です。神がその一日一日を私たちに与えてくださるのです。しかも神は、ご自分のみこころのままに、ご自分のペースでこれを授けてくださいます。目の前の姿や外側だけで私たちが物事を判断せず、神の心をのぞき見て、神に従って歩むことは、どんなに大切でしょうか。
人間の目は、罪で曇っています。あの罪を犯した、このことをやってしまったということではありません。神を無視する自分勝手が根本的な罪なのです。イエス・キリストの十字架の血潮でこの罪の曇りをぬぐい去っていただいて、神と人と共に、ほんとうの生きる道を歩みたいものです。

 


◆高い山に登れ。

2013年06月25日 12時30分03秒 | 聖書

(イザヤ四〇・九)

キリストを知ることは、あたかもイギリスでウェルシュ山に登るようなものである。
ふもとにいる時には、きわめてわずかしか見ることができない。山は実際の高さの半ばぐらいに思われる。狭い谷間に立っていると、山麓の小川に注ぐ小さな渓流のほかには何も目に入らない。初めの峰を登り尽くすと、谷は長くなり広がって、あなたの足下に開ける。さらに高く登ると、あなたは五、六キロ四方を見下ろして、その光景はいっそうすばらしいものとなるだろう。そしてなお登りつめるなら、展望はさらに広くなる。そしてあなたが頂上に達し、そこに立って東西南北を見はるかすならば、足下にイングランドのほとんどが横たわるのを見るであろう。おそらく、はるかかなたの遠く二百キロも離れた森林を見ることもできるであろう。こちらに海があり、かなたに川が輝き、工業都市の煙の立ち上る煙突、あるいは港の船のマストも見られるであろう。こうしたすべてがあなたを喜ばせ、あなたはこう言うだろう。「なんという光景! こんなすばらしいものが見られるとは!」と。
クリスチャンの生活もこれと同じである。私たちが初めてキリストを信じた時は、ほんのわずかに見るだけである。そして私たちが高く登れば登るほど、さらに主の美しさを見いだすのである。しかし、だれがその頂上を極めたか。だれがキリストの測り知れない愛の高さと深さを知っただろうか。
パウロは老境に入り、白髪が混じるようになってから、ローマの獄中において私たち以上の確信をもって「私は、自分の信じて来た方をよく知っている」と言った。彼にとって一つ一つの経験が丘を登るようなものであり、試練の一つ一つが新しい山頂に立つ思いであった。そして死は、山の絶頂に立つようなものであった。そこで彼は、自分のたましいをゆだねた主の真実と愛のすべてを展望することができたのである。
愛する友よ。立って、高い山に登れ。

 


ヨシュア記4章15-18節

2013年06月24日 11時32分58秒 | 聖書

4:15 主はヨシュアに言われた、
4:16 「あかしの箱をかく祭司たちに命じて、ヨルダンから上がってこさせなさい」。
4:17 ヨシュアは祭司たちに命じて言った、「ヨルダンから上がってきなさい。」


神様は、ご自分の御心をヨシュアに直接に語ることによって伝え、ヨシュアはその言葉に従って事を行いました。

これはアブラハムもそうです。

しかし後になりますと、神様が直接人に語りかけるというあり方が少なくなって、代わりに、神様が預言者を遣わして、神の御心を伝えるということがなされました。

そのことによって、神様のお心とご計画が、人々に伝達されたのです。

そこではいつも、言葉による伝達ということがなされてきました。

 ヨシュアは、その主の語られた御言葉に従うことによって、その御旨をなしていきました。

このことは、今の時代でも同じです。

今は、書かれた神の御言葉である聖書を通して、神様は私たちに、その主の心を伝えてくださっています。

ですから、私たちが神の御心はどこにあるのかということを知ろうと思う時には、この神のみ言葉である聖書に聞き従うようにと招いてくださっているのです。


◆へりくだりと幸い

2013年06月24日 11時26分02秒 | 聖書

へりくだって貧しい者とともにいるのは、
高ぶる者とともにいて、
分捕り物を分けるのにまさる。    (箴言一六19)

自分は、あんな若造・無教養の人・貧乏な人・力のない人の仲間ではない。もっと高級なえらい者の仲間だと背伸びしている人がいます。そして、そんな人たちとより豊かな富・高い教養・大切な仕事などの分捕り物の分け前にあずかっていると思いこんでいるのです。いいえ、人ごとではありません。あなたや私の中にも、そんな心があるのではないでしょうか。たとえば「今の若い者は」と言い、「自分はキャリアが違う」「女子どもなんか」などと言って、自分を一段違ったところに置いて見ていませんか。
イエス・キリストは、「心が柔和な、へりくだった人は地を相続する」(マタイ五5参照)と言われました。へりくだった人こそ、この世界で、人生の一番よいうるわしいものを相続するというのです。そういう人は、若い後輩の中に、自分の妻や子どもや部下の中に、貧しい人々や教養のない人々の中に、すばらしいものを見つけます。心は開かれていて人々と心から何でも語り合い、愛や励ましや導きを受けることができます。また、与えることもできるのです。
しかし高ぶった人は、心を開いて話せる人がなく、血の通った交わりがありません。自分の妻とも深い話ができないし、自分の子どもとすら話せないのです。高ぶった人には人が理解できず、愛とかいのちとかが分からないからです。
修養や我慢によっては、へりくだりは学べません。ほんもののへりくだりは、神でありながら人となり、罪人・酒飲み・遊女の友となってくださったイエス・キリストからのみ学べるのです。その生涯の最後に十字架にかかってくださり、恥多き死を経験されたイエス・キリストこそ、人の心をくだき、ゆるし、きよめ、へりくだらせてくださるのです。

 


◆群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。

2013年06月24日 11時24分18秒 | 聖書

「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ一一・二七、二八)

ある人たちは、主の母になることは非常な特権であるように考える。主の母が、私たちにはおよそ望めない方法で、主の心を洞察できたと想像するからである。これは一応もっともであるが、よく考えるとそうではない。マリヤも、他の人以上には知らなかった。彼女はその知っていることだけを心に留めていた。しかしどの福音書を開いて見ても、彼女がキリストの弟子たちより信仰の進んだ信者であったとは記されていない。彼女の知ったすべてのことを、私たちもまた見いだすことができるのである。
このように語るのは、大言壮語のように思えるであろうか。否、ここには適切な証しの聖句がある。「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」
さらに次のみことばを覚えよ。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」
このように主は神のことを腹蔵なく私たちに語り、私たちの益になることは少しも隠すことをされない。さらに「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」と言われるのである。今日主は、ご自身を世には示さないで、私たちに示してくださるのではないだろうか。たしかにそうである。
ゆえに私たちは、無知にも「あなたを産んだ腹……は幸いです」と叫ぶことはないようにしよう。みことばを聞き、それを守ることによって、第一に、イエスの母マリヤと同様な救い主との真実の交わりに入り、次に、彼女が得たと思われるキリストの心の秘密を知り、それゆえに、神をたたえよう。
こうした特権を得たたましいはまことに幸いである。

 


ヨシュア記4章8-14節

2013年06月23日 11時09分31秒 | 聖書

4:14 この日、主はイスラエルのすべての人の前にヨシュアを尊い者とされたので、彼らはみなモーセを敬ったように、ヨシュアを一生のあいだ敬った。


神様は、神様がなされるヨルダン川での渡りの奇跡を、ヨシュアに告げることによって、民に知らせました。

また、その通りにことが行われることによって、神様がこのヨシュアに語られているのだと、民は知りました。

それによって民は、神様はヨシュアをモ-セに代わって民の指導者とされているのだということを理解したのです。

これ以来、彼らはヨシュアを敬ったと伝えています。

敬ったというのは、神がたてられた指導者して認識したということです。

 ところで、私たちが今、教会で指導者として立てられているのは、牧師であり、伝道者であり、宣教師です。

こうした人々が敬われる理由は、どこにあるのでしょう。

 それはこれらの人々が、神のみ言葉を語り伝えるべき人として立てられたことにあります。

ですから、託された神のみ言葉を伝えるという限りにおいて、敬われるべき方々であるのです。



◆高ぶりと破滅

2013年06月23日 11時04分04秒 | 聖書

高ぶりは破滅に先立ち、
心の高慢は倒れに先立つ。     (箴言一六18)

人の高ぶりや高慢は手にとるように分かっても、自分の高ぶりや高慢は見えないものです。高ぶりや高慢は見えない、いいえ、見ようとしないところから来ます。自分の弱点や欠点を見ようとせず、強い点やすぐれている点だけを見て、自分はすぐれていると思います。他人のすぐれた点やうるわしい点は見えない、いいえ、見ようとしません。そして、他人の弱点や欠点ばかり見て、自分と比べるのです。これは、心の弱さ・狭さともいえましょう。そんな人は、仕事をして成功すると自分のせいだと思い、失敗すると他人のせいにします。これでは、部下も家族もつきあいきれません。
高慢な人や高ぶった人でも、しばらくはうまくいく時があります。上役にごまをすり、友人にもうまく立ちまわれば、あなたを実力者だなどと思いこんでくれるでしょう。しかし、世の中の多くの人は見抜いているし、神をごまかすことはできません。神の目の前に、高慢な人とは自分の墓穴を掘っている人と見えるに違いありません。「ごうまんと高ぶりは、私の性質だ。自尊心があるのだ」などと思ってはいけません。それは、あなたのすべてを知りながら、あなたを愛し、あなたを導こうとしている神を締め出し、拒否し、認めない罪なのです。このまま神に締め出されたら、人生は破滅ではないでしょうか。
ほんとうに聖書のあちらこちらに、神は高ぶる者を退け、へりくだる者を恵むと書いてあります。神の求めたもうものは、悔いたくだけた心だとも記されています。へりくだったくだけた心にだけ、人の愛の交わりの手はさし伸ばされ、神の愛と恵みが注がれるのです。ほんとうのへりくだりを真実に教え与えてくださるのは、神でありながら人となり、人のためにくだかれたまいしイエス・キリストです。