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ヨシュア記3章7-13節

2013年06月20日 11時10分27秒 | 聖書

3:13 「全地の主なる神の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、上から流れくだる水はとどまって、うず高くなるであろう。」


主は、この不思議な業をしてくださる理由には、2つのことがあることを伝えました。

1つは、これがなされることによって、神が、ヨシュアをモ-セに代わって民の指導者とされたのだということを、証しすることでした。

そしてもう1つのことは、民がこのカナンの地に容易に入ることができるようにしてくださるためでした。

 具体的にその不思議な業というのは、ここで語られているように、神の箱を担いでいる祭司の足が、ヨルダン川の岸辺でその水に浸る時、そのヨルダン川の水がせき止められるということでした。

そして、祭司がその川の真ん中で立ち続ける時に、そのまませき止められるということでした。

モ-セに導かれて民がエジプトを出た時に、神様は紅海の水をせき止められて、民を導いてくださいました。

今はヨルダン川で同じようにされて、ヨシュアの指導者としての立場を明示されたのです。


◆福音的処世術

2013年06月20日 10時24分39秒 | 聖書

主は、人の行ないを喜ぶとき、
その人の敵をも、その人と和らがせる。(箴言一六7)

どんな人間関係を持っているかということほど、その人の成長度をはっきり測れる尺度はないと思います。しょっちゅう争っている人がいます。ある時は冷戦、ある時は熱戦です。こんな人は、幼い人です。
しかしこの人間関係こそ、私たちの大きな悩みの種ではないでしょうか。心の通い合う平和な人間関係がなかなか持てません。まあ、ただの友人の間柄ならまだいいでしょう。気にいらなければ、ひとりで盆栽いじりをしたり、つりにでも行けばいいわけです。しかし、逃げようにも逃げられない人間関係があります。家庭の中の人間関係、職場での人間関係、主婦にとってのご近所づきあいやら親戚づきあいがそれに当たります。ことに、自分より目下の者との人間関係はむずかしいものです。親は、いったい子どもにどう接して、どう叱り、どう励ますかが問題です。あるいは、会社での部下との間柄もそうではないでしょうか。
こういう問題のために、たくさんの修養書や指導書、ノウハウものが出ています。「部下をうまく叱る方法」とか「子どもはスパルタ式で」とか、いろいろあります。しかしそんな修養書や人間のことばには、一つのねじというか生命線的ボルトが、一本抜けていると思うのです。処世術の本は、まわりの人といかにうまくやるかばかりを論じています。私たちを造り、世界を造り、すべてを支配している神との関係が抜けているのです。
神の権威を認め、神を恐れ、神の愛を知って、それをひしひしと感じ、真に愛し合う力を神から受けていくと、どうなるでしょうか。こういう神に喜ばれる生活をしている時、人間的な工作は無用になります。神が手を入れてくださり、敵のように思えた人と仲よくできるようになります。聖書のことばのとおりが実現するのです。

 


◆見よ。わたしは命じて、

2013年06月20日 10時21分35秒 | 聖書

ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない。(アモス九・九)

すべてのふるい分けは、神のご命令と許可によって来る。サタンはヨブに手をつける前に、神の許可を求めなければならなかった。否、むしろある意味において私たちのふるい分けは、天からの直接のふるい分けである。ここに引用した聖句に「イスラエルの家をふるい」とあることからも明らかである。サタンはあくせく働く奴隷のようにふるいを手にし、物をだいなしにしようとしているかもしれない。しかし主のご支配の手は、破壊を目的にした敵の手段を用いてその穀物をきよめられる。主の打穀場で激しくふるわれる尊い穀物よ。主は殻竿をも、ふるいをも、ご自身の栄光のため、またあなたの永遠の利益のため支配しておられる。この祝福に満ちた事実により、自らを慰めよ。
たしかに、主は手に持っておられる箕を用いて、尊いものと卑しいものとを分けられる。すべてが真のイスラエルではない。倉の中にうず高く積まれているのは、きれいな穀物ではない。だから、あおぎ分けることが必要である。ふるいの中では、真の重量をもつもののみ力がある。実質のないもみがらは、風の前に吹き飛ばされなければならない。真の穀物のみが残る。
主の小麦が全く安全であることに注意せよ。最も微細な穀粒ですら、保存されるという約束を与えられている。神ご自身がふるい分けをされるゆえ、それは激しいものである。神はあらゆる場所で、「すべての国々の間で」ふるわれる。神は最も有効な方法をもって「ふるいにかけるように」ふるわれる。しかし、それにもかかわらず、最も小さい、最も軽い、また最もしなびた穀粒すら地に落ちることはない。個々の信者はみな、主の前に尊いのである。母親がその一人の子どもを、人がその身体の一部分を失うことを欲しないように、主は贖われた民の一人でも失われることを欲されることはない。私たちがどれほど小さくても、もし主のものであるならば、キリスト・イエスの中に守られていることを喜ぶことができる。