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今日の聖人の記念日

2017年12月04日 07時34分36秒 | キリスト教

聖シャル・ガルニエ

1606年-1649年

 シャルは、パリの裕福な名門の家に生まれた。率直・活発な性質で、友達から尊敬されていた。19歳でイエズス会に入り、1635年、29歳で司祭となった。
 先輩のイエズス会員の手紙に刺激されてカナダ宣教を志し、1636年故国を発った。ケベックを経てヒューロン村に着いたとき、村には熱病が蔓延しており、シャルは先輩とともに献身的に看護にあたった。ヒューロンの人びとの信頼を得たシャルは彼らにキリスト教を伝え、受洗者は増えていった。しかし、宣教者やヒューロン人を敵視しているイロクワ人が、ヒューロン村を襲撃するという危険がいつもあった。そこでシャルは、祖国の恩人やフランス政府の援助を受けて「聖マリアの要塞」を築いた。彼はここを根拠地として、ヒューロン湖付近のペトゥン人にも宣教したが、効果はなく追い出されてしまった。  その間も凶暴なイロクワ人はヒューロン村を襲い、ついにペトゥン村にも来襲の危機がやってきた。6年前追い出されたペトゥン村を再び訪れて住民に教えていたシャルは、燃え上がる小屋の中を駆け回って人びとを救い出し、洗礼の水を注いだ。しかし敵の銃弾を受けたシャルは、庭の真ん中に倒れ、こうして信仰の英雄は、43歳で殉教した。

聖ヨハネ(ダマスコ)司祭教会博士

657?年-749年

 ヨハネはダマスコの裕福な家庭に生まれた。当時、その地域はイスラム教によって支配されていた。父親はキリスト者だったが、イスラム教徒の支配者の好意を受け、総督の職に就いていた。ヨハネは、シチリア島出身のイタリア人修道士から古典語、神学、科学を学び、その後、父のあとを継いでダマスコ市を治めた。数年後辞職した彼は、716年、エルサレムに近い、サバス修道院に入った。  そのころ東方教会では、レオ3世皇帝によってイコンなどの聖画像は偶像礼拝だとされ、聖画像論争が起こった。ヨハネはイコン擁護の立場を取り、異端者と戦った。また、彼は多くの神学的著作を残し、なかでも哲学、異端、東方教会の信仰について述べた『知識の泉』は有名である。この作品の中で、彼はギリシャ教父たちの教え、三位一体、受肉、聖体におけるイエスの現存、聖母マリアの無原罪、被昇天などについて述べている。また、聖歌の作曲も行った。聖母マリアへの信心に熱心で、マリアの祝日に関する説教を残した。彼は、東方教会の「聖トマス・アクィナス」と呼ばれている。  1890年、教皇レオ13世によって教会博士の位に挙げられた。

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