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今日の聖人の記念日

2017年06月22日 06時48分43秒 | キリスト教

聖ヨハネ・フィッシャー司教殉教者

1469年-1535年

 ヨハネは、イギリス、ヨークシャーのビヴァリーに生まれた。ケンブリッジ大学で学び、司祭になってからは母校で神学を教え、1504年に同大学の総長となった。彼は、高い理想のもち主であり、有名な人文学者エラスムスの友人であった。人望厚いヨハネは、国王ヘンリー7世からロチェスター司教に任ぜられ、また宮中の顧問にも任命された。しかし次の王ヘンリー8世は、初めのころは信仰深かったが、皇后との離婚問題をきっかけに、教皇権を排除するなど、自らが教会の頭になることを主張した。それに反対したヨハネは、国王に逆らったということで捕えられ、処刑された。そのとき彼は、「私は誰の良心も非難しない。彼らの良心は彼らを救うであろう。そして私の良心は私を救わなければならない」と言って殉教したといわれる。

聖トマス・モア殉教者

1477年-1535年

 トマスは、ロンドンに生まれ、オックスフォード大学で法律学を学び、弁護士となった。

 ヘンリー8世の時代、英国の宰相に任命された。離婚問題を起こした国王が、英国教会の首長の地位につくことを主張したため、トマスはそれに反対の姿勢をとった。このため、彼はロンドン塔の獄舎に15ヵ月間監禁された。そして、友人ヨハネ・フィッシャー司教の処刑後9日目に死刑の宣告を受けた。「私は、まず神の忠実なしもべとして、それから国王の忠実なしもべとして死んでいきます」という言葉を残して殉教した。彼は、弁護士の守護の聖人として知られている。

聖パウリノ(ノラ)司教

354年ごろ-431年

 パウリノは、フランス、ボルドーの裕福な家庭に生まれた。父親はイタリア、スペインに土地を持つ、ガリア地方長官だった。詩人のアウソニウス(310-393年)から教育を受け、後にパウリノは法律家となった。その後ヨーロッパを旅し、スペイン人のテラシア(Therasia)と結婚した。2人は、数年間裕福な生活を過ごし、洗礼を受け、キリスト信者になった。

 長い間子どもに恵まれず、やっと生まれた男の子も、生後1週間で亡くなった。彼らは、質素な生活をし、財産のほとんどを貧しい人や教会に寄付した。

 パウリノの模範的で愛徳に満ちた生活は評判となり、彼は当時助祭でなかったにもかかわらず、バルセロナの司教から司祭に叙階された。

 フランスの土地を売ってナポリの近くにあるノラに移った彼は、水路を作り、フォンディに教会を建てた。また自分の住む家の一階を巡礼者や貧しい人々のために提供し、彼自身は二階で友人たちと半観想的な生活をし、妻のテラシアがこの小さな共同体の雑務を行った。彼の友人には、アンブロジオ(340年ごろ-397年)、ヒッポのアウグスティヌ(354-430年)、ヒエロニムス(340-420年)がいた。迫害時に鞭打ちを受け、その後は奇跡の業を行ったノラのフェリックス(311年ごろ死去)に信心があり、彼の遺体はパウリノの家の近くに埋葬された。

 パウリノは409年に司教に選ばれたが、具体的にどのように司牧していったかは、記録に残っていない。

 彼の最後も、貧しい人々にささげられたものだった。431年6月22日、ミサを2人の司教とささげた後、貧しい人に最後の施しとして銀50枚を渡し、その日の晩の祈りのときに息を引き取った。

 彼の遺骨はローマに移され、1909年、ピオ5世のときノラに戻された。


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