座間コミニティー

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◆あなたは私を大いに喜ばせ、

2017年02月01日 15時47分53秒 | 聖書
あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。(Ⅱサムエル一・二六)
愛する友よ。私たち一人一人は、ヨナタンの愛ではなく、イエスのすばらしい愛を語ろうではないか。人から伝え聞いたことではなく、キリストの愛について自分が味わったこと、経験したことを語ろう。
イエス様、私がまだあなたから遠く離れてさまよい、肉と心の欲を満たしていた時、あなたの私に対する愛は、何ものにもまさってすばらしいものでした。私が死に至る罪を犯すのをとどめ、私を滅びから守られました。あなたの正義が「これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか」と言った時、あなたの愛はその「斧」をとどめてくださいました。あなたの愛は私を荒野に導き、私の衣をはぎ取り、私の罪と咎を自覚させました。私があわてふためいていた時、あなたの愛は「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と、慰めのことばをかけてくださいました。
ああ、瞬時に罪を洗い去り、私の汚れたたましいを、吹き積もる雪のように白く、きれいな羊毛のように純潔にされたあなたの愛は、なんとすばらしいものであったでしょう。あなたが私の耳もとで「わたしはあなたのもの、あなたはわたしのもの」とささやかれた時、どんなにあなたは愛を示されたことでしょう。あなたが「父ご自身があなたを愛しておいでになる」と言われた時、その御声は優しい声でした。私に「御霊の愛」を語られた時、それは実にすばらしい瞬間でした。あなたがご自身を啓示された時の、あなたとの交わりの部屋を私は決して忘れません。
モーセは岩の裂け目にあって、神の後ろ姿を見たのではないか。私たちにもまた岩の裂け目がある。そこにおいて、キリストのうちに全き輝きを見た。ダビデは、山羊の通った道を思い出し、またヨルダンとヘルモンの地を思い出したではないか。私たちにも、これらの祝福された場所に劣らないなつかしい所がある。
尊い主イエス様。あなたの驚くばかりの愛の新しい飲み物を私に与え、この月を始めさせてください。
 

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、

2017年02月01日 15時47分12秒 | 聖書

使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」(使徒8:1)

「何でこんな事が?」時に、突如の苦しみが襲う。

しかし、実はこの迫害こそが、取りも直さず、神の新しい働きのために、みわざの前進のために用いられたのだ。

「エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となる」との御言葉の通りに、人々が散らされ、福音がエルサレム以外の地域に宣教され始めた。
教会の新しい働き、神のみわざは突如開始されて行った。

迫害自体は大きな苦しみ、痛み、不都合だったが、振り返る時、神の御旨の成就であったとわかる。

同様に、すべてを見通す神の目からは、御旨が着々と成し就げられて行っている事が、すなわち私達にとっては大きな苦しみ、悩み、困難の形となって現れる事があるという事だ。

ヨセフも異国に売られ、無実の罪で投獄され、厳しい患難の中を通ったが、実はイスラエルが存続するため、家族を救うために、予めエジプトに送られたのであった。

今、あなたにとって「何でこんな苦しみが?」「どうして?」と理解不能の事態が目の前にあるかも知れない。

しかし、苦悩の迫害が、実は地の果てまで証人とされて行く、御旨の成就であったように、神の目からは、正しく事が進んでおり、先には素晴らしい結実が待っている。
今はわからないが、信じていよう。神に間違いはない。良い事のための計らいとされる。

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痛い、しんどい事が起こる。その事自体は苦しく辛いが、大きな神のご計画の一環であり、パズルが埋まって行くように、その先に確かな結実がある。
状況に飲み込まれてしまわず、神様視点で見ていよう。



今日の聖人の記念日

2017年02月01日 07時02分40秒 | キリスト教

聖ブリジッタおとめ

453年-524年

 ブリジッタは、アイルランドの信仰深い家庭に生まれた。幼いときから修道女になることを志し、貧しい人々の世話をするなど、常に神と隣人への愛に生きていた。18歳になると数人の同志とともに神に従って生きる生活を始め、司祭メル(後のアイルランドの司教)のもとで誓願を立てた。そしてギルデアに、アイルランド最初の女子修道院を建てた。ブリジッタは人々の霊的・物質的生活の向上に努め、修道院を学問と芸術の場とした。彼女の行ないは人々に影響を与え、「ゲール人のマリア」として慕われるようになった。

 彼女の遺体は、アイルランドの守護の聖人である聖パトリック(3.17 参照)のそばに葬られた。彼女はブライドとも呼ばれ、聖パトリックとともにアイルランドの守護聖人として親しまれている。


詩篇10篇14-15節

2017年02月01日 07時00分44秒 | 聖書


10:14 あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。



 不幸な人、つまり人から差別され、捨てられ苦しめられている人々、そうした人々の内には、親を持たない孤児達がいます。

その孤児達は、時に人々から口と力による害毒のような苦しみを投げられ、つらい思いを持って過ごすことがあります。

しかし、彼は一人ではありません。

神が共におられるというのです。

 では、神様はその時、どうしておられるのでしょう。

「彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」と、語っています。

彼らを御手の中に収めるため、つまり彼らを身元において下さるために、見つめてくださっているというのです。

主にある者が苦しみにあっても、主に委ねて歩む時に、主は彼らを見捨てておられるのではありません。

時が来たときに、主が彼らに祝福を与えるために、彼らを見てくださっているのです。


◆心地よい眠り

2017年02月01日 06時58分21秒 | 聖書

こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、
あなたの足はつまずかない。
あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。
休むとき、眠りは、ここちよい。(箴言三23―24)
健康の証拠は、「快眠・快食・快便」といいます。あなたは、「快眠」していらっしゃいますか。
だれにも「眠られぬ夜」はあると思います。人さまざまの眠り方もあるようです。ネズミは一日に七百回も眠り、一回の眠りは約四十秒とのことです。まさかこんな人はいないでしょうが、私は昔中国を旅行した時、立っていても歩きながらでも眠ったことがありました。
心地よい眠りとは、一日の終わりにもう目も開けていられないほど心地よく疲れて自然と眠りにつき、朝起きると昨日の疲れはどこへやらのさわやかさ! こんな眠りのことでしょう。
ところが、いわゆる不眠症の人が多くいます。眠りは神の贈り物だと思います。柔らかいベッドはお金を出せば買えますが、眠りは買えません。眠れない原因は、千差万別、さまざまの理由があるでしょう。
けれども平安な心地よい眠りは、神の御手の中にあると感じるのです。第一に、神を否定し神の贈り物を拒絶した心には、イライラや不平不満がはびこって、平安な眠りは望めません。第二に、神のみこころを大切にし、これに従ったという心のやすらぎは、快い眠りにつながります。
今も病床で眠れない方もありましょう。この機会に、昼は聖書をたくさん読み、夜目がさめているなら、聖書のことばをあれこれと考えて、あるいは研究してみてごらんなさい。人生の一大転機となるかもしれません。
 

◆彼らは主の道について歌うでしょう。

2017年02月01日 06時57分04秒 | 聖書
(詩篇一三八・五)
クリスチャンが主の道について歌い始めるのは、彼らが初めて十字架の下で重荷を降ろした時である。罪を赦された神の子のたましいからほとばしり出る最初の歌は、神の使いたちの歌も及ばないほどに喜ばしいものである。あなたは、ジョン・バニヤンがそれについてどのように書いているか知っているだろう。バニヤンは、罪に悩む巡礼が十字架の下で重荷を降ろした時、三度躍り上がって、次のような喜びの歌を口ずさみながら出かけたと言っている。
 ほむべきかな十字架、ほむべきかな墓よ
 否、まことにほむべき方は
 私たちのために辱しめを受けたその人です
主にある友よ。あなたの足かせが地に落ちた時を記憶しているか。イエスがあなたに会われて、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。あなたが犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはない」と言われた場所を記憶しているか。
ああ、イエスが私たちの罪の苦しみを取り除かれる時は、なんと楽しい時だろう。主が初めて私の罪を赦してくださった時には、私は喜びのあまり躍り上がった。その所から家に帰る途中、私はその救いの物語を、道端の石にまで語り聞かせたいと思った。私のたましいは喜びにあふれ、空から舞い落ちる雪のひとひらひとひらにまで、謀反人のかしらである私の罪をぬぐわれた驚くべきイエスの愛を語り聞かせたいと思った。
しかし、信仰生活の初期だけに歌があるのではない。生きる限り、主の道には歌うべき恵みが絶えない。主の絶えることのないいつくしみを経験する者は、「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」と言うであろう。
 長い荒野の旅の間も
 新しい恵みが常にあって
 私たちはいつも新しい歌を歌う
 

1月31日(火)のつぶやき

2017年02月01日 01時28分57秒 | キリスト教