座間コミニティー

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◆あなたの柔和は、

2016年04月09日 17時02分18秒 | 聖書
私を大きくされます。(詩篇一八・三五英訳)
 
この聖句は「あなたの善良は、私を大きくされます」と訳すこともできる。ダビデは自分の偉大さを彼自身の善良さにではなく、神の善良に帰して感謝している。「あなたの摂理は」という別の訳がある。摂理は善良が行動に表れたものにほかならない。善良はつぼみであり、摂理は花である。善良は種子であり、摂理は収穫である。「あなたの助け」と訳す者もいるが、これは摂理と同じ意味をもつ。摂理は聖徒の強い味方であり、彼らの主に対する奉仕を助ける。さらに「あなたの謙遜は、私を大きくされます」と訳すこともできる。
「あなたのへりくだり」という訳は、包括的な意味をもち、これまで述べてきたいろいろの概念を総合しているようだ。私たちが大いなる者とされるのは、神がご自身を小さい者とされるからである。私たちは全く取るに足らぬ小さい者であるから、もし神がへりくだることなくご自身の偉大さをそのまま現されるならば、主の御足に踏みつぶされてしまうであろう。しかし空を見るにも身をかがめ、御使いのわざを見るにも腰をかがめられなければならない神が、さらに目を低く注いで、心のへりくだって悔いている者たちを見、彼らを大いなる者とされるのである。
このほかにも別の訳がある。七十人訳聖書では、「あなたの訓練」(あなたの父としての矯正)が「私を大きくされます」とあり、カルデヤ語では「あなたのみことばは、私を大きくされます」と意訳してある。しかし、述べられていることは同じである。ダビデは、彼のすべての偉大さを、天におられる父なる神がへりくだられた善良さに帰している。
今夜私たちが、自分の冠をイエスの御足もとに投げ出して、「あなたの柔和は、私を大きくされます」と叫び、この思いを心に響かせることができるように。私たちの神の柔和は、どれほど驚くべきものであったろう。その忍耐は、その教えは、また私たちをご自身のもとに導かれた方法は、なんと柔和であったろう。信者よ。感謝の思いを目覚めさせ、謙遜の思いを深くし、今夜あなたのうちなる愛を生き返らせよ。
 
 

今日の聖人の記念日

2016年04月09日 10時23分33秒 | キリスト教

聖マダレナ・カノッサ

1774年-1835年

 マダレナは、イタリアの貴族の家に生まれる。17歳のときにカルメル修道会に入会したが、貧しい子女のために教育をすることの必要性を感じて修道会を去り、「カノッサ修道女会」を創立(1808年)した。

 この修道会は日本には1951年に来日し、世田谷、大牟田(福岡)、水俣(熊本)、大口(鹿児島)で、学校教育・社会福祉活動に貢献している。


◆くちびるを制する

2016年04月09日 10時22分26秒 | 聖書

ことば数が多いところには、
そむきの罪がつきもの。
自分のくちびるを制する者は思慮がある。(箴言一〇19)
 
もし自分のしゃべることが全部録音されていて、それが全部公開されるとすればどうでしょうか。
アメリカ合衆国の大統領で、そんな目に会った人がいました。まだ記憶に新しいことです。大統領が陰でどんなことを言っていたかを知ったアメリカ人は、みなショックを受けました。そしてこの人は、自分が陰で言ったことによって恥を受け、失格者となりました。アメリカ合衆国大統領という世界最大の権力・力・地位は、ある意味で、地球の運命もにぎっています。彼がボタン一つ押せば、世界は吹っ飛びます。それほどの地位も権力も、その語ったことばによって帳消しになりました。ことばは、実に恐ろしいものです。
私たちは、大統領ほどえらくありません。しかし、自分のくちびるを制さなければ、結局は同じことをしているのではないでしょうか。私たちがべらべらしゃべる時、私たちの心のきたなさ・狭さがどうしても出てきます。自分に近い人・職場の人・ご近所の人・家族友人を話題にする時、「背きの罪」を犯してしまいます。信義に背くことばが出てしまい、後で自分で悩むこともありましょう。実際に争いが起こったり、知らぬ間に人間関係が損なわれたりもします。
語ることをやめるのは、知恵の始まりです。私の友人はこう言いました。「二つの耳と一つの口を神が人に与えられたのは、一つ話す間に二つ聞けということです。」語るより先にまず「聞け」、そして何よりもまず、「神のことばを聞け」ということです。人間の不幸のすべては、神のことばを無視して自分勝手に動いているところにあります。神は私たちを愛し、私たちの罪を悲しみ、ゆるしきよめようとしておられます。この神のことばをまず聞くことから始めましょう。
「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ一19)。
 
 

◆大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、

2016年04月09日 10時21分39秒 | 聖書
イエスのあとについて行った。(ルカ二三・二七)
 
贖い主を悲しい運命に追いやったやじ馬に交じり、深い苦悩のうちに泣き叫ぶ人々もいた。――これは悲しみの行進にふさわしい挽歌とでも言うべきものである。
カルバリに十字架を運ばれる救い主を思う時、私のたましいは、敬虔な婦人たちに加わって共に泣く。なぜなら、そこに真に悲しむべき理由があるからである。その理由は、これらの悲しんでいる婦人の考えるよりはるかに深い。彼女らが悲嘆にくれたのは、罪のない者が虐待され、善良な者が迫害を受け、愛が鮮血にまみれ、柔和な者がまさに殺されようとしたからである。しかし私の心には、さらに深く激しい悲嘆の理由がある。それは私の罪が主の肩を引き裂き、血潮の流れる額にいばらの冠をかぶせたことである。私の罪が「十字架だ。十字架につけろ」と叫び、救い主の尊い肩に十字架を押しつけた。主が刑場に引き出されたことは、まことに永遠に悲しむべきことである。しかし私が主を殺したのだとなると、どれだけ悲しんでも足りない。貧しい涙の表し得ぬ悲哀である。
これらの婦人がなぜ愛し、かつ悲しんだかは察するに難くない。しかし私の心にある愛と悲哀の理由よりも大きくはなかったろう。ナインのやもめは、その子がよみがえらされたのを見た。しかし私は、新しいいのちによみがえらされた。ペテロのしゅうとめは熱病をいやされた。しかし私は、罪の疫病からいやされた。マグダラのマリヤからは、七つの悪霊が追い出されたが、私からは一軍団の悪霊が追い出された。マリヤとマルタは主の訪問を受けたが、私は主と共に住む。主の母は主を宿した。しかし主は私の中に生まれてくださり、栄光の望みとなられた。
こうした敬虔な婦人たちより多く恵まれた私の感謝も悲哀も、彼女らよりはるかに深いのである。
 
 

第2歴代誌34章8-13節

2016年04月09日 10時20分24秒 | 聖書


34:8 この地とこの宮とをきよめたのは、彼の治世の第十八年で、彼は、その神、主の宮を修理するため、アツァルヤの子シャファン、この町のつかさマアセヤ、エホアハズの子参議ヨアフを遣わした。
34:9 彼らは、大祭司ヒルキヤのもとに来て、神の宮に納められた金を渡した。



 ヨシヤによるユダとエルサレムにおける改革は、偶像礼拝に用いられていた像を壊して、打ち砕き、それらを捨てるということのみに向いていたのではありませんでした。

彼は偶像を壊した後、礼拝の場所である神殿の修理に取りかかりました。

人々が、真の主を礼拝できるようにしたのです。

神殿の修理のため、彼は神の宮に納められていた金を、大祭司ヒルキヤに渡しました。

そして、彼の手から、神殿を修理する働き人に渡されました。

こうして、今まで無視されていた主の神殿を修理して整え、人々が喜んで主を礼拝できるようにしえたのです。

 真の主を礼拝するためには、偶像を取り除くだけでは、十分ではありません。

どのように主を礼拝するのかを知らせ、礼拝への道を整えることも、大変大事なのです。


使徒の働き9:23~27

2016年04月09日 10時17分34秒 | 聖書


★ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。

■O:今日のコラム
ハレルヤ、今日という日を心から感謝します!!!

今日の箇所では、有名なサウロ(後のパウロ)が、主の弟子たちを迫害するために、ダマスコに行こうとしていた時に、イエス様と出会った箇所です。

今日、この箇所で注目したいことは、神様とサウロの出会いです。聖書を見るときに、多くの人物は主と出会っています。アダムは神によって造られました。ヤコブは神と格闘しました。モーセは神と顔と顔を合わせて話をしました。どのような人物も、神様と自分だけの体験がありました。

今日の箇所では、サウロにとって、これが神体験でした。彼はまさかこのような体験をするとは予想もしなかったでしょう。自分は正しいことをしていると思いながらダマスコに向かっていたと思います。

しかし、この神様との出会いがきっかけで、彼は変えられました。また、特に使徒の働き9章7節を読むと、周りの人々は声は聞こえていても、見えず、ただ立っていました。つまりこれは、サウロの体験、サウロへの神様からの語りかけだったわけです。

私は、クリスチャン家庭で育ちました。なので、お腹の中にいる時から、教会に行っています(笑)。教会で多くの時間を過ごし、クリスチャン学校に通っていました。その中で、もちろん神様がいると信じてはいました。

しかし、聖霊のバプテスマを受けるときまで、私は神様の存在を悟ってはいませんでした。この聖霊のバプテスマという大きな神体験をした時から、本当の意味で、さらに生き方が変わっていきました。

もちろん、体験主義になると危険です。やはりバランス(釣り合いが取れている状態、安定)が大切です。しかし、私たちの神は昔も、今も、これからも生きておられる、真の神です。本物の神を信じている私たちは、御言葉に従って、本物の体験をしていくはずです。そうあるべきです。

創世記5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。

この箇所の、「神とともに歩んだ。」というのは、英語で、Enoch walked with God です。そして この「with」 という言葉の語源を調べると、アナー「出会う」という意味があります。つまり、エノクは人格的に神と出会い続けていた人物だったわけです。その彼は死を体験せずに、天に上げられました。

■A:考えてみよう

今日も、主との人格的な出会いを求めていきましょう。もちろん、出会いを求めたけどよく分からない、祈ったけど何もなかった、ということもあり得ると思います。しかし、求める者に与えられる主を信じて、自分と神様だけの体験、本物の人格的な出会い、みことばなる方を求め続けていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


4月8日(金)のつぶやき

2016年04月09日 01時42分39秒 | キリスト教