座間コミニティー

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◆ラザロは、

2013年11月21日 16時21分56秒 | 聖書

イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。(ヨハネ一二・二)

ラザロはうらやましい存在である。イエスと共に座り、そのみことばに耳を傾け、その行動を見、その微笑を受けることは大きな恩寵であり、ラザロを天使のように幸福にしたに違いない。私たちが将来、愛する主と主の大広間で食事を共にする幸いに浴する時には、たとえ一息で世界中の王国が買えるとしても、そのようなものには見向きもしないであろう。
私たちはラザロにならわなければならない。イエスが食卓に着いておられるのに、ラザロが食卓にいなかったとすれば奇妙である。ラザロはかつて死んで、イエスがよみがえらせた者なのだから。彼にいのちを与えられた主が家に来ておられるのに、死からよみがえらされた彼がいないならば、全く恩知らずの行為と言われても仕方ないであろう。私たちもかつては死んだ者であった。そして、ラザロのように、罪の墓の中で悪臭を放っていた。イエスは私たちをよみがえらせ、主のいのちによって私たちは生きている。私たちは、主から遠く離れて生きることに満足できるであろうか。主が兄弟と食事を共にしようとしておられるのに、私たちが主を忘れてよいだろうか。おお、これはなんという冷たい仕打ちか! 私たちは悔い改めて、主が命じられたようにすべきである。なぜなら、主の最も小さなみこころも、私たちの法律となるべきなのだから。
ユダヤ人が「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」と言ったお方と、不断の交わりの中に生きないことは、ラザロにとっては恥辱であったであろう。永遠の愛をもってイエスに愛されている私たちにとって、これは許されることだろうか。いのちをなくした体のために涙を流してくださった主に冷たくすることは、ラザロにとっては最も残酷に思えたであろう。涙を流してくださったばかりでなく死んでくださった救い主に冷たくすることを、私たちはどう思っているだろうか。
読者よ。主と親密な交わりをもち、これからは主と共に食卓に着けるように聖霊に求めよう。

 

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◆罪をかくす人

2013年11月21日 09時05分40秒 | 聖書


自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。
それを告白して、それを捨てる者は
あわれみを受ける。        (箴言二八13)

私たちは、自分の罪をかくしたがるものです。
第一に、証拠をいんめつし、ひたすら人に分からないようにします。第二に、「だれでもしているじゃないか。ぼくばかりじゃない」とか、「こんな小さなことより、世間にはもっとひどいことが、ざらにあるじゃないか」とか、「今度だけだ。もうしない」とか、さまざまな言いわけを考え出します。「あの人のせいだ」「あの人がさそったのだ」と、人に責任転嫁も試みます。第三に、そして早く忘れようと努めます。記憶の外に葬り去ろうとするのです。
しかし、どんなに罪をかくしても、第一に、事実は消えません。第二に、人間の良心をごまかすことは至難のわざです。忘れたと思っていても、意識の下に沈殿して、ぬぐいきれない不安となって作用します。そして第三に、他人も自分もごまかせても、神はごまかせません。見ていらっしゃる、知っていらっしゃる、そして、さばかれます。
ある鍛冶屋の若い女房が愛人と共謀した殺人事件がありました。まじめで働き者だった大分年上の夫に、酒を飲ませて酔いつぶれさせ、脳天にくぎを打ちこんで殺し、遠く離れた山中に死体をうめたのです。そして、何食わぬ顔で、その家をのっとって生活していました。ところが、どうでしょう。二十年近くもたって、そのくぎが打ちこまれた白骨死体が鉄道工事で掘り出されました。そのくぎが動かぬ証拠となって、二人の悪事がすべてさばかれたという生々しい事件です。
ところが、聖書はこう言うのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ一9)。ゆるし、きよめてくださるばかりではありません。新しい人生の出発のために、神は備えてくださるのです。
心をかたくなにする人

 

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◆神の聖霊を悲しませてはいけません。

2013年11月21日 09時04分41秒 | 聖書

(エペソ四・三〇)

信者がもつすべてのものは、キリストから来たものでなければならない。それはあらゆる恵みに富んでおられる聖霊の通路を経て来る。さらに、すべての祝福がこのように聖霊を通してあなたに流れ入るように、あなたの聖い思い、熱心な礼拝、情け深い行いなどの良いものは、同じ聖霊による聖別の働きなくしては、あなたの中から出てこない。たとえ良い種があなたのうちに蒔かれたとしても、聖霊が働きかけてあなたのうちに志を立てさせ、事を行わせるのでなければ、種子は眠ったままである。
あなたはイエスのために語りたいと願うか。――聖霊があなたの舌に触れられなければ、どうして語ることができよう。あなたは祈りたいと思うか。ああ、聖霊がとりなしてくださらなければ、それはなんという退屈な仕事になることであろう。あなたは罪に打ち勝ちたいか。聖くなりたいと願うか。霊的生活の最高峰に登ろうとしているか。神の使いのように、主のために熱心な者になりたいか。しかしあなたは聖霊なくしては絶対にそのようになることはできないのである。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ぶどうの枝よ。あなたは養分なしには一つの実も結ぶことはできない。
神の子どもよ。神が聖霊を通して与えられたいのちのほかに、あなたは自分のうちにいのちをもっていないのである。だから私たちは、罪によって聖霊を悲しませたり、怒らせたりすることのないようにしようではないか。たましいのうちの、聖霊のごく小さな働きでも消すことがないようにしたい。聖霊のすべての示唆を重んじ、そのあらゆる命令に従うように心備えをしていようではないか。自分が聖霊を離れては全く弱いことを知るなら、私たちは忠実に従うことを誓って、次のように祈ろう。
 主よ。私の心を開いて入ってください
 あなたを私の心の奥に迎えますから
 その自由な御霊によって私を支えてください

 

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士師記9章46-49節

2013年11月21日 09時03分09秒 | 聖書

9:49 民は皆それぞれ枝を切ると、アビメレクについて行って、それを地下壕の上に積み、そこにいる者を攻めたて、地下壕に火をつけた。ミグダル・シケムの人々、男女合わせて約千人が皆、こうして死んだ。


シケムの町には、町の防衛と見張りのために、やぐらがありました。

シケムの町の人々は、アビメレクが畑に出た人々を殺害したということを聞きましたので、自分たちも殺害されるのではないかと恐れて、このやぐらの所に集まりました。

その数は、男女1000人ほどであったと語られています。

やぐらであれば堅固ですから、兵の力からは守られると思ったことでしょう。

 所が、アビメレクは部下に、山で木を切ってそれを肩に乗せてくる仕草を見せて、部下に同じように行わせました。

そして、彼らが運んできた多くの木を、やぐらの地下に置きました。

そこに火をつけたのです。

やぐらは堅固ですが、木造ですので、ひとたまりもありません。

火事になって、その中にいた多くの人々が焼け死んでしまいました。

こうして、シケムの町の人々の多くが殺されました。

彼は自分の力による勝利を、また確保したのです。

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ヨハネによる福音書15章7節(アモス書9章)

2013年11月21日 09時01分11秒 | 聖書

★  あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなた方のためにそれがかなえられます。

■O:今日のコラム

ここでイエス様が語られている「わたし」はイエス様ご自身のことであり、「あなたがた」とは弟子たち、そしてイエス様を主と告白する私たちのことです。

私たちがイエス様のうちにとどまり、イエス様のことばが私たちのうちに、とどまる。これは、花婿と花嫁の関係のようです。

花嫁は花婿と一つとなる時、花婿が所有するものを共に所有するようになります。
エステル王妃が王の名とその指輪を用いて、ユダヤの民を救うことができたように、私たちも王なるキリストの花嫁となるなら、キリストの王としての権威をともに所有することとなります。

私たちが御父の御心の中に、みことばの中に、聖霊の助けの中にとどまるなら、私たちは天の王が治めるものを、共に治めるものとなることが出来るのです。

周りでおきている色々な理不尽なこと、サタンの支配の元にいる人々を見る度に胸が痛みますが、私たちが主と共に治めることが出来れば、主の義によって、地上にはびこる不法を、すべての不義を打ち砕くことが出来るのです。

祈りの家について、パク・ホジョン先生は「祈りの油注ぎ」と「祈りの霊」の両方を受ける必要があると語られました。熱心に祈ること自体、聖霊様の助けが必要なのです。

「祈りの油注ぎ」は主との親密な関係に入るのに必要で、「祈りの霊」は霊の戦いをするために必要なものだと語られました。

「祈りの油注ぎ」を受けて花嫁として主と更なる親密な関係に導かれ、「祈りの霊」を受けて、これから日本に起きる戦いのために、神の軍隊として整えられて行きましょう。

私たちは、ますます主と親密な花嫁となり、主と共にこの地を治める者へと変えられていきましょう!

■A:考えてみよう

自分は主の中にとどまっているだろうか?

御言葉は自分のうちにとどまっているだろうか?

祈りの油注ぎ、祈りの霊を求めていきましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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