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ヨシュア記6章12-21節

2013年07月02日 07時45分41秒 | 聖書

6:20 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。


主は、エリコの町を攻略する時に、指示を与えられました。

1日1回、沈黙を守りながら、主が指示した通りにこの町を回るということです。

そして、7日目には7回まわって、それが終わると、大きな声で叫べと言われたのです。

主が命じられたように、民は大きな「時の声」を上げました。

するとエリコの町の塀は崩れ、イスラエルの民はこの町に入り、町を攻略することができました。

 主がこのような方法によってエリコの町を攻略させてくださったことには、2つの理由がありました。

 1つは、エリコの町が大きな町であって、イスラエルの民にとって、攻略が大変であったことです。

もう1つは、この民がカナンの地に入って、初めての戦いの場所であったということです。

そこで敗れては、民の心はくじかれてしまいます。

そこで主は、彼らを導いて指示を与え、主のみ力を持って、助けてくださったのです。



◆あ ざ け る な

2013年07月02日 07時39分01秒 | 聖書

貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。
人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。(箴言一七5)

インドやタイを旅して最初に心を打たれたことは、どんな人と会っても両手を合わせ、その人を拝むようにしてあいさつすることでした。その国の人々にとっては、それはただの形式にすぎなくなっているのかもしれません。しかし、どんな人をもばかにしないで、ああ、この人も神が造られ神に愛されているすばらしい大切な人なのだと心から手を合わせる。――そんな心と態度は大切な美しいものではないでしょうか。
イエス・キリストは、こんな話をされました。ラザロというみじめな病気の物乞いが、大金持ちの家の前に、いつも寝ていました。犬が寄ってきて彼の傷をなめました。その屋敷の主人は、召使に命じて、毎日残飯を投げ与えていました。そして、自分こそ、その物乞いを生かしているくらいに考えていたでしょう。ところがイエス・キリストは、永遠の世界でのこの二人の姿を私たちに見せてくださいました。ラザロは、アブラハムのふところでやすらい、金持ちは底なき淵の中で嘆き苦しむのです(ルカ一六19―26参照)。
聖書は、貧しい人を見くだして食べ物を投げてやるような慈善をけっして教えていません。貧しい人の友、悲しんでいる人の隣人、病んでいる人のそばに座る人になるように教えているのです。イエス・キリストは、私たちを見くだして号令をかけるためにこの世に来られたのではありません。罪人の友となり、彼らのためにいのちを投げ出されたのです。
神が造り神が愛しておられる人をばかにする人は、神をばかにしていることになります。そんな人は、必ず罰を受けます。それは、自分を理解してくれる隣人を失う孤独という罰です。神はまた、人の幸せをねたみ、人の不幸を喜ぶ自分中心や自分勝手をも、隣人を隣人とせず神をそしる罪として、同じように罰されるのです。

 


◆まことに私たちの心は主を喜ぶ。

2013年07月02日 07時36分38秒 | 聖書

(詩篇三三・二一)

クリスチャンが最も深刻な苦難の中でもなお喜ぶことができるのは、幸いな事実である。もし困難が彼らを取り囲んでも、彼らは歌い続ける。それだけでなく、多くの小鳥のように、かごの中にいる時に最もよく歌うのである。波が彼らの上を越えるかもしれない。しかし彼らのたましいはすぐに水面に浮かび上がって神の御顔の光を見る。彼らには、常に水の上に頭を上げていることのできる浮力があり、あらしの中でも「神はわれらと共にいます」と歌うのである。この栄光はだれに帰すべきであろうか。イエスである。すべてはイエスによるのである。
必ずしも困難は信者に慰めを与えるものではないが、神の御子が信者と共に火の燃える炉の中におられるということが、その心を喜びで満たすのである。彼が病み苦しんでいる時にも、イエスは彼を訪れ、彼のためにベッドを整えられる。彼は瀕死の場にあり、ヨルダンの冷たい水はその首まで上がってきている。しかしイエスは御手を彼に置き、「愛する者よ。恐れるな。死は祝福である。それは苦くなく甘露のように甘い。なぜならそれは神の御座から流れているからだ」と叫ばれる。聖徒が流れを渡っている時、川の波が彼を包み、その心が臆していても、同じ声がその耳に響く。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と。彼が不可知な無限の境界に近づき、暗い世界に入ることを恐れる時にもイエスは言われる。「恐れるな。あなたがたの父は王国をあなたがたに与えることを喜ばれる」と。
このように力づけられ慰められた信者は、死を恐れない。否、むしろ喜びをもって旅立ちたいと思う。なぜなら彼は今イエスを明けの明星のように見ているが、太陽のように目のあたりに見たいと望むからである。実にイエスのご臨在こそ、とりもなおさず私たちの望む天国そのものなのである。
イエスは「私の輝く昼の栄光、私の夜の慰め」であられる。