座間コミニティー

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レビ記7章11-14節

2012年04月07日 07時44分32秒 | 聖書

7:11 「主にささげる和解のいけにえのおしえは次のとおりである。
7:12 もし、それを感謝のためにささげるのなら、感謝のいけにえに添えて、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべい、さらに油を混ぜてよくこねた小麦粉の輪型のパンをささげなければならない。」
  先には、罪過のための生け贄を献げる事について、詳しい説明がされていました。
祭司が詳しい説明を聞いて、その通りに事を行うことが出来るようにするためでした。
 本日の箇所からは、和解の生け贄を献げるときの事について、詳しい説明がなされています。
この和解の生け贄のことでは、感謝のために献げるもの、誓願のために献げるときのものなど、詳しく記されています。
 新約聖書でも、福音書で、イエス様のことが詳しく記されて、その教えられたこと、また行われたことなどを知ることが出来ます。
次に、書かれている手紙などを読むと、そのことよって、福音書の内容の詳しい理解が与えられるように導かれています。
聖書は、全体を知ることと、次に、さらに内容が詳しく説明されて教えられるという、そうしたあり方で語られているのです。


◆二つの収穫

2012年04月07日 07時36分10秒 | 聖書

正しい者の報酬はいのち。
悪者の収穫は罪。        (箴言一〇16)

「正しい者」の報酬はいのち。それは、満ち足りた張りのある豊かないのちです。
ユダヤ人のあいさつは、おはようも、こんにちはも、こんばんはも、そしてさよならもシャロームです。平和・平安という意味の、いいあいさつだなあと私は思いました。しかもこのシャロームは、ただ争いや戦争がないだけの平安ではありません。すべてが備わって満ち足りて、欠けのない状態を意味するそうです。
* 健康も備わっている。
* なすべき仕事もあり、仕事に張りがある。
* お金にも困らない。
* 生きる喜びを感じ、人生に確信・充実感がある。
聖書がいのちと言っているのは、このように充実した人生のことです。このいのちの充足感・充実感のない人が多いのではないでしょうか。仕事は一生懸命にやり、いろいろと細かいところまで心遣いをしています。ところが、わきあがるような喜び・満足がありません。部下や上司ともしっくりいかないところがあります。仕事のことでも、どこか確信がなく不安なのです。正しい者は、その自然の結果として、満ち足りたいのちを収穫するといわれています。
聖書の言う「正しい者」とは、どんな人でしょうか。それは、造り主である神・そのやり方・その目的の偉大さ・力強さ・すばらしさが分かって、これに合わせ、これに従って生きようとする人たちのことなのです。
私の身近に、人生がむなしくて深酒をし、時々上役とぶつかり、気を遣う一方で自信をなくしていた人がいました。しかし、神が分かり、神に教えられるとおりに生き始めました。その人は、もう会社の仕事が苦でなくなり楽しみになり、人間関係もスムースになったのです。

 


◆人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ……るのか。

2012年04月07日 07時34分38秒 | 聖書

(詩篇四・二)

あるすぐれた見識をもつ著述家が、無知なイスラエル人が、長い間待ち望んでいた彼らの王に与えた名誉についての痛ましいリストを作成した。
・ 彼らは名誉の行列を作った。それにローマの兵士、ユダヤの祭司をはじめ、男女の群れが参列し、主はご自身で十字架を負われた。これは、人類の敵を倒すために来られた主にこの世が与えた祝勝である。あざけりの叫びが主への歓呼であり、残酷なののしりが主への拍手である。
・ 彼らは名誉の祝杯を主に与えた。美酒を盛る金杯の代わりに、罪人の死の苦痛を麻痺させる酸いぶどう酒を主に与えたが、死の苦痛を何の妨げもなく味わうために、イエスはこれを拒否された。その後、主が「わたしは渇く」と叫ばれた時、彼らは酸いぶどう酒を海綿に含ませて飲ませようとした。ああ、王の御子に対する、なんと不快な憎むべき冷遇であろう。
・ 主には名誉の護衛兵がつけられていた。彼らは主の着物を奪い、くじ引きでそれを分けることによって主に敬意を払った。天においてあがめられるべきお方の護衛兵は、このような粗暴なばくち打ちであった。
・ 主の名誉の宝座は血にまみれた木であった。反逆した人々は、その君主にこれより安穏な場所を与えようとはしなかった。実に十字架は、主に対する世の感情を十分に表している。世はこう言っているかのようである。「神の子よ。もしわれわれが神自身を捕えるなら、やはりこのような目に会わせるのだ」と。
・ 名誉の称号は、表面は「ユダヤ人の王」であったが、実際には無知の民は主を拒否し、主よりもバラバを好み、主を二人の犯罪人の真ん中におき、恥辱の中心とし、かつ「盗人の王」と呼んだ。
このように、主の栄光は人の子たちのためにことごとく恥辱に変えられた。しかしそれは聖徒と天使の目を限りなく喜ばせるものであったろう。