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山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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「碓氷地方の城について」 山崎一氏著

2015-12-10 22:30:58 | 歴史資料
松井田城の歴史

西條州の名城、松井田城の歴史や武田氏との攻防、武田氏が滅亡して北条氏の大道寺政繁が守った松井田城を豊臣氏の配下、前田氏や真田氏が攻め落とした状況を紐解いてゆきます。


縄張り図 山崎氏図

永禄四年(1561)十一月二日、武田信玄が信州小海の松原明神に参った祈願文中に「西牧、高田、諏訪の三城不経二十有日而或降幕下或撃破散亡者」(西牧・高田・諏訪の三城、二十有日を経ずして或は降り、或は撃破散亡せば)と記されている。このうち諏訪城というのはどこか、不明であった。信玄はそこから作戦を開始し、十一月十九日、吾妻の鎌原宮内少輔に次のように申し送っている。「高田降参、今日は休馬、明日より向于国峰可及行候(高田降参、今日は馬を休め、明日より国峰に向かい手立てに及ぶべく候。)西牧城・高田城を持っていた高田繁頼が降参したので国峰に向かうというのだが、国峰城は諏訪城と別称した証拠はない。松原明神祈願文から、この諏訪城は、高田城、西牧城とともに二十日以内に攻略できる地域内の城で、記載の順序から、高田城より北にあるように思われる。そこで当時信玄が覘うと思われる上信境の諸城中から、西牧・高田両城から引き続き作戦可能な地区の中心城郭を模索すると、松井田城以外にはない。松井田城が諏訪城と呼ばれる可能性を検討すると次のようになる。
 安中誌の新堀村の項に「諏訪大明神、除地九反三畝拾歩、一村の鎮守神也。鎮座年月不詳、字は西城、城主諏訪但馬守居城。為鬼門守護信濃国諏訪湖より勧請」とあり、新堀の鎮守は諏訪明神であったことが知られる。諏訪神社は現金剛寺とともに字西城にあり、その城主が諏訪但馬守である。この城を諏訪城と呼んだことはほぼ間違いない。しかし、この一握りも足らぬ館城に、信玄が祈願をこめて撃破を祈るほどの必要があったろうか。そこで考えられるのは、ここを西城と呼ぶのに対し東城がなければならず、それが現松井田城の前身であろうとの推定である。

金剛寺地図
金剛寺と松井田城の位置がよくわかります。

松井田城

松井田西城

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