山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

猪崎城②

2016-09-25 08:47:59 | 近畿地方の城
本丸へ


本丸南下腰曲輪

本丸南下の空堀

西下の空堀

土塁の外側、畝状堀が施されているように見えます。

空堀越しに登ってきた曲輪群を見下ろしています。

本丸西下の空堀の土塁に作られた虎口、ここが大手かもしれません。ここの堀から西へ廻り本丸西虎口へ

本丸

本丸西南にある櫓台

本丸西下の腰曲輪

こうした腰曲輪によって西側を守っています。

西側一段目の腰曲輪に下りて見ています。

縄張り図のように西側は三段に腰曲輪は配されています。

西下の腰曲輪から本丸城壁を見ています。

本丸西虎口

猪崎城は中堅規模ですが、なかなかの縄張りで、またこの地方は曲輪を切岸によって区切られているのかと思いました。
次回 岐阜県垂井にある菩提山城(竹中半兵衛の城)
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猪崎城

2016-09-24 18:53:35 | 近畿地方の城
猪崎城(いざき)は京都府福知山市猪崎にあります。

猪崎城地図

地方道55号線(舞鶴福知山線)からアクセスすれば分かりやすいかと思います。
現在は城山公園となっています。

城郭の説明が詳しくされています。

縄張り図

縄張り図の現在地とあるところから、古墳のような形の郭から南に登ります。
南第一曲輪

南第一曲輪から階段状の城壁を見ています。

南第一曲輪の西下の腰曲輪

南第二曲輪と上段の城壁

南第三曲輪(二の丸でしょうか)
この上は本丸の周囲を土塁と空堀によって固めています。圧巻ですが次回とします。

歴史
猪崎城は、明智光秀が福知山城を築くまで、この地の拠点的な城郭であったといわれている。天正期目前の、中世城郭の姿を今に留めている城郭であるといえる。
 城主は当地の豪族であった横山一族の塩見氏であった。天文7(1538)年4月、塩見利勝は、赤井氏との戦いに戦功を上げて、管領細川氏から感状を得ている。
 その後、丹波地方は波多野氏やその一族の赤井氏らに支配されるようになったため、塩見氏もそうした勢力に組み込まれていったものと思われる。天正7年(1579)、明智光秀による丹波攻略は着々と進められていた。8月19日、黒井城が攻め落とされると、その余勢を買って、当地域も明智軍の侵攻にさらされた。当時の城主塩見播磨守家利は、衆寡敵せず、城を焼いて落ち延びようとしたが、その途中で明智軍と遭遇し、奮戦して討死したと伝えられる。城はそれ以降、廃城となったものであろう。「余湖くんのお城のページ」サイトより



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高津城②

2016-09-23 19:08:40 | 近畿地方の城
高津八幡宮の由緒に福知山藩主 有馬豊氏の名があり調べてみますと

豊氏は、少壮より父に従って各地を転戦したが[1]、有馬家には兄の次期当主である則氏がいたので、姉婿にあたる大名・渡瀬繁詮に仕え、家老を務めた。天正20年(1592年)の豊臣氏による朝鮮出兵に際しては、兵200を率いて名護屋城に参陣している。
文禄4年(1595年)、渡瀬繁詮が豊臣秀次の事件に連座して改易されたうえに切腹させられると、豊臣秀吉の命によりその所領と家臣を全て引き継ぎ、遠江国横須賀3万石の大名として秀吉に仕えることとなった。
秀吉死後は、父の則頼とともに徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)正月には家康の命により淀城の守備に当たっている。徳川家の御伽衆として遇され[1]、慶長5年(1600年)6月には家康の養女連姫(蓮姫)を娶った。
同年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、美濃国岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後ろ備えを務めた。有馬父子の功績に対して同年12月、家康は、父の則頼には有馬家の発祥地である有馬郡三田2万石の知行を許し、豊氏を山陰の丹波福知山6万石に加増のうえ転封とした。直後の慶長7年(1602年)に父が死去すると、その遺領・三田2万石も継承し、8万石の大名となった。豊氏は初代福知山藩主として福知山の町を築いたことで知られる。ウィキペディアより


高津城

堀切を越えて虎口を登ると

第一曲輪と切岸

第一曲輪から西下曲輪(仮に)見下ろしています。

第一切岸を登って第二曲輪

第二切岸を登って、帯曲輪と本丸城壁

角度を変えて帯曲輪の東側を見ています。

本丸

本丸から帯曲輪西側を見下ろしています。

帯曲輪東側、この先南東に尾根があり大きな曲輪があったようです。


八幡宮の由緒にある(前回記事)九鬼隆都について
綾部藩は寛永10年(1633年)3月5日に立藩した2万石の外様の藩である。藩祖は戦国時代に織田信長に仕えて名を馳せた水軍の将・九鬼嘉隆の孫九鬼隆季である。嘉隆の死後、九鬼氏は子の九鬼守隆が継いでいたが、その守隆が寛永9年(1632年)に死去すると、三男の隆季と五男の九鬼久隆との間で家督争いが起こった。これは守隆が生前に五男の久隆を溺愛して嫡男に選んだのが原因であるが、御家騒動の結果、久隆は摂津国三田藩へ移封され、隆季は綾部にそれぞれ移封され、ここに九鬼氏は嘉隆以来の故郷である志摩国鳥羽藩の地を失うに至った。隆季は寛文元年(1661年)3月28日、弟の九鬼隆重に500石を分与し、分家を創設している。また、隆季は城下町の建設や検地などを行なって藩政の基礎を固めた。
 第9代藩主・九鬼隆都は佐藤信淵や奥山弘平らを招聘して農業政策を中心とした藩政改革に取り組み、さらに山鹿素水を招いて軍事の改革も行なった。隆都は弘化4年(1847年)に木綿会所を創設して専売制を実施し、藩財政をいくらかは再建することに成功した。幕末期の動乱に入ると、隆都は文久元年(1861年)6月10日に家督を子の九鬼隆備に譲って隠居する。隆備ははじめ佐幕派であったが、禁門の変で御所の警備を務めた頃から次第に官軍側に与するようになり、慶応4年(1868年)1月には西園寺公望を通じていち早く新政府側に帰順した。その後、隆備は版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により綾部藩は廃藩となる。その後、綾部県を経て、京都府に編入されることとなった。 ウィキペディアより


次回 猪崎城(福知山城の北東2kmくらいにあります。)

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高津城

2016-09-22 19:43:36 | 近畿地方の城
高津城は京都府綾部市高津にある八幡宮の西山にあります。
高津城地図

山陰本線高津駅と平行に走る地方道8号線から南に八幡宮の鳥居が見えます。

高津八幡宮

高津藩主によって守護されてきたことは分かります。

八幡宮の境内南に山道が通っています。

山道の傍らに説明板

簡略の縄張り図

山道へ入って50mほどで右手に大きな曲輪があります。

山道に沿って縄張り図にある六つの郭の最上段の郭

山道が終わり曲輪に着き

空堀が行く手を阻んでいます。

空堀を見下ろしています。

次回 主郭へ

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福知山城

2016-09-21 21:22:14 | 近畿地方の城
今回の旅行で、福知山城・高津城・猪崎城・菩提山城(岐阜県 竹中半兵衛居城)と雨天を縫って登ってきました。

早速、福知山城から紹介します。

福知山城地図

国道9号線からも山陰本線からも天守閣がよく見えます。

堀を渡る太鼓橋から

天守を目指してゆき、回廊のような大手

高石垣を巡りながら

本丸南から天守を望みます。

本丸の南側にある銅門番所(当時は二の丸にあったそうです。)

本丸北門から見ています。

天守内に入って東から見ています。手前は豊磐井(とよいわのい)



歴代城主

福知山城の歴史
明智光秀は、織田信長の命をうけ丹波国征討戦を開始、これに敵対したのは赤井直正・波多野秀治連合軍で、塩見信房は赤井・波多野連合軍に加担していた。当初は赤井・波多野連合軍は「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれる戦術で明智光秀軍を撃退したが、赤井直正が天正6年(1578年)3月9日に病死、波多野秀治の居城八上城が翌天正7年(1579年)6月1日に落城、赤井直正の居城であった黒井城も同年8月9日に落城した。
これより前に明智光秀は丹波国征討戦に際して金山城を築き、矢島刑部、朽木久兵衛、加上弥右衛門らが城代となっていたが、丹波国の掃討戦が開始された。同年8月20日より四王天政春、林半四郎らが加わり横山城を攻めた。塩見信房とその弟塩見信勝と共同で防戦したが、衆寡敵せず結局自刃して果てた。また山家城の城主和久利明も火を放たれ、攻められて敗れた。猪ノ崎城の城主塩見利勝は自ら火を放ち、落ち延びている途中に林半四郎らに川北周辺で討死した。これを期に福山地方に属していた国人衆は皆、明智光秀に降伏し福知山平定が成った。
明智光秀は丹波国を平定すると、これを福智山城と改名、近世城郭へと大修築し、城代には藤木権兵衛と明智秀満を置いた。ウィキペディアより


天守に登り城下を見て、高津城を目指しました。次回に
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