山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

室島城

2016-05-31 21:02:27 | 山城ー越後
室島城は十日町市(旧川西町)室島にあります。秋田では三人の方がクマに襲われているそうです。くれぐれも熊ベル、できれば熊スプレーを持参して警戒を怠らないように、山に入ってください。

室島城地図

国道403号線、川西区室島に入り、この赤い橋の奥に見える山が室島城です。橋の手前南側の建物に

案内板の通り、橋を渡って50mほどの民家の間を通って山に向かいます。

登り道手前で駐車場があります。この看板から左手の林道を進みます。間違ってもアサファルトの道を進まないようにしてください。

林道を15分程度登っていくと、この案内板があり、ここから城山大手に向かいます。

農林水産省補助事業で遊歩道が整備されています。

第一小曲輪

標高362mの山ですから、簡単ではありません。

急勾配の登り道が続きます。

第二小曲輪

城壁が見えてきました。

本丸


次回 節黒城(旧川西町)
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時水城③

2016-05-30 19:52:34 | 山城ー越後
二の丸から本丸へ


三の丸から二の丸方面を見ています。

二の丸、奥に本丸

本丸、西から見ています。

本丸を今度は東から見ています。

本丸の西下に腰曲輪

お地蔵さんが祭られています。

二の丸、三の丸を見下ろしています。

本丸東下の東曲輪、休憩所があります。

休憩所にある説明板

東曲輪は南方にも伸びています。

本丸から小曲輪(北曲輪)を見下ろしています。こうしてみると北側の重要な守りの拠点であったと思います。

小国氏について
摂津源氏の流れを汲む源頼行(源頼政の弟)を祖とする一族であり、頼行の孫である源頼連が鎌倉時代に越後国刈羽郡小国保(新潟県長岡市小国町)の地頭となり小国氏を称した。以来、越後国の国人として承久の乱では頼連が北条朝時軍に参加するなどした。小国氏は、質の高い資料において断続的に見られており、戦国期に至っても信用できる系図を持った氏族である。
南北朝時代には小国政光が、天神山城を拠点に越後での南朝方として活躍した。建武2年(1335年)には蒲原津城を築城し、翌建武3年(1336年)には、池氏、河内氏、風間氏、於木氏、千屋氏、高梨氏らと島崎城に篭もり足利尊氏方の色部高長・加地影綱らと戦うが落城した。
戦国時代になると小国頼久は上杉謙信に仕え、第一次川中島の戦いでの後詰、越中攻めでの遊軍、佐渡征伐や関東遠征へも参加など、戦功をあげた。謙信死後の御館の乱では一族間で上杉景勝派と上杉景虎派と分裂。戦後景勝は、腹心の直江兼続の弟、樋口与七を養子に入れて強引に小国氏を継がせ、大国(大國)と改姓。これが大国実頼となった。実頼は後に上杉家から追放されるが、その後継者として兼続は弟・樋口秀兼の息子である光頼を指名し、家督を継承させる。光頼の後の大国家は米沢藩の重臣として存続した。ウィキペディアより


次回 室島城 新潟県 旧川西町
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時水城②

2016-05-29 21:30:23 | 山城ー越後
政治を読む

安倍は平成19年まで消費税延期を言い出した。こともあろうにアベノミクスが失敗したのを誤魔化すために、G7サミットを利用して「世界経済はリーマン・ショック前に似ている」と発言し消費税延期を正当化しようとしている。今日の毎日新聞で報じられているように、イギリス・フランス・アメリカのメディアは一斉に消費税延期のための口実とし、サミットを利用したと批判している。その通りである。日本国民を「リーマンショックの前に似ている」といえば誤魔化せるだろうと安倍は考えており、御用新聞はこの見え透いた口実を正当化することに協力し、国民を誘導していく発言が出てくるであろう。アベノミクスがなぜ、失敗したのか、600兆円という国民の消費が伸びないためである。当たり前である、1000万人が今や非正規雇用だという。いつ首を切られるかわからず、低賃金に抑えられていて、いろいろ買うこなどできない。まして家庭を持ち、子供を育てて行くことなどできない若者が増えている。まともな政権であれば、ここにメスを入れなければ、経済成長(もはやこの発想もいかがなものか)がされず、まして人口増加など夢のまた夢である。日本銀行副総裁の中曾という人物が80歳から84歳まで働いてもらわなければ、労働人口が減る一方だと発言したそうである。馬鹿も休み休み言えと言いたい。なぜ官僚は国民人口を増やしていく、根本的施策を考えないのか。非正規雇用をなくしていく法律を整備し、子育ての環境を整え、幼稚園、保育園、保母さんの処遇改善。教育費の援助、こちらに税金を使っていくことしか、日本の未来はない。このまま人口減少がつづけば地方自治体がなくなっていく試算がされている。もう限界に来ている。安倍は口先では一億総活躍、女性の社会進出、一人の女性の出産比率を上げていく。などと言うが、政策は真逆である。待機児童一つ見ても有効な予算を組んでない。国民には消費税を上げて、福祉に充実などと言うが、実際は大企業の法人税減税を実行している。大企業は内部留保400兆円と言われている。もうかっている大企業から適切な税金を取り、これを子育てや、福祉政策にもっていけば、人口増加、労働力が増えていくことになるのである。

時水城

手前に見える小曲輪を登ると

小曲輪から本丸を見ています。

本丸北城壁、左手から大手

小曲輪を見下ろしています。土橋のように空堀が両側から迫っています。

大手は本丸の裾から登ってゆきます。越後の山城はこのような道を作ります。当然本丸からの攻撃が苛烈になるためです。

大手は南に廻って、腰曲輪が備えて虎口を形成し、この上が二の丸、本丸です。

腰曲輪の南下に三の丸(縄張り図が手元にありませんので仮に)看板が奥に見えますが小国町方面へ下る搦め手と思います。

次回 二の丸・本丸へ
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時水城

2016-05-28 14:08:00 | 山城ー越後
時水城は小千谷市と小国町との県境にあります。

時水城地図
越後川口ICから国道117号線を西に走り、五つの交差路の所から県道520号線に入ります。

県道520号線入り口

1.8kmくらいでこの二又に着きます。これを左手に進みますが道は狭く、私は歩きました。

途中から車では無理で、結局歩かざるを得ません。農道を歩いてゆくと、支尾根にぶつかり倒木があるものの、迂回する道が東回りであります。北側に出るとこの棒標があります。

山道はいるとすぐに、両側には腰曲輪が数段築かれています。

城山を見ています。尾根を大きく西から南へと回り込む道です。

ここから南に300mくらいです。

細尾根を進みます。

西の小国町を見ています。

堀切

農道からここまで、およそ40分、時水城址です。これ以降は次回とします。
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氏族の追跡(長野氏)⑦

2016-05-27 11:27:17 | 氏族の追跡
戦国の争乱と榛名地域

二 長野憲業
山内家内で憲房と顕実が争いを始めた永正九年(1512)永正の乱、憲房は室田の長年寺に宛てて軍勢などの「濫妨・狼藉」を禁止する制札を発給している。これは当地に上杉方の軍勢が進出することが予測されたため、長年寺が軍勢らの暴行・略奪行為を防止するため、憲房の制札を得たものである。この時、吾妻郡方面から敵勢力の進出が予測されていたのであろう。この時、室田にいたのは長野憲業である。憲業も長年寺に対し、同年十月に壁書を出している。

 永正の乱 越後国の内乱
永正3年(1506年)9月、越後守護代長尾能景が越中で戦死し、長尾氏の家督を継いで越後守護代となった長尾為景が、永正4年(1507年)8月、上杉定実を擁立して守護上杉房能を急襲。関東管領上杉顕定(房能実兄)を頼り関東への逃亡を図った房能を天水越で丸山信澄らと共に自害に追い込んだ。

これを討たんとした顕定は永正6年(1509年)、報復の大軍を起こすと為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。しかし翌永正7年(1510年)には寺泊から再び越後へ上陸。為景方が反攻に転じると坂戸城主長尾房長は上杉軍を坂戸城には入れず六万騎城に収容させた。為景軍が六万騎城に迫ると上杉軍は退却したが、援軍の高梨政盛(為景の外祖父)の助力もあり、長森原の戦いで顕定を戦死させた。この戦いで、顕定に従軍していた長尾定明や高山憲重らも討たれており、山内上杉家の軍事力は大きく減退した。
その後為景は宇佐美房忠・色部昌長・本庄時長・竹俣清綱ら敵対勢力を破り、越中神保氏討伐へと繋がる。

山内上杉家の内紛]

顕定が戦死すると顕定と共に為景を討つため出陣し上野白井城に駐屯していた上杉憲房は撤退した。関東管領職は顕定の養子である上杉顕実が継承するが、同じく養子である憲房はこれを不服とし横瀬景繁・長尾景長らの支援を受け家督を争う。顕実は実兄の古河公方足利政氏に援助を求めるが、憲房は政氏の子で顕実の甥の足利高基を味方につけ対抗し、古河公方を巻き込み関東は2分された。扇谷上杉家当主・上杉朝良は仲裁に動いたが失敗、相模を伊勢宗瑞に侵略されていく。
永正9年(1512年)、顕実は長尾顕方や成田顕泰らの支援を受けて武蔵鉢形城に拠ったが、横瀬景繁・長尾景長らに攻められて敗北。山内上杉家当主の座を失い兄・政氏を頼って古河城へと逃亡した。
永正12年(1515年)、顕実の死によって終焉。関東管領職も憲房が継ぎ、家宰職も総社長尾家の顕方から足利長尾家の景長に移る事になるが、この内紛で弱体化した山内上杉家は長尾景春の再度の離反を招き、朝良の甥、上杉朝興や相模北条氏の北条氏綱、甲斐武田氏の武田信虎などと争うこととなる
(ウィキペディアより)


翌永正十年四月、憲業は榛名神社に立願状を認め、大戸要害の落城を祈願し、落城することができれば「百疋之下地」を寄進することを約束している。百疋之下地は一貫文の収益が見込まれる土地である。憲業は吾妻郡への侵攻を目論んでいたことになる。この時期吾妻郡は反上杉の勢力下にあったことが伺える。要害は兵乱に備えて設けられた城塞であり、大戸には浦野氏がいた。

大戸城(手子丸城)

榛名神の加護を受けて憲業は吾妻に侵攻したが「長野氏系図」によると憲業は吾妻郡で討死したとみられる。永正の乱での戦いが、反上杉勢力の浦野氏に対し長野憲業に征伐の命が下された為の戦いであった。
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