山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

細越城③

2016-07-31 22:11:15 | 山城ー越後
二の丸へ

本丸との堀切を越えて、二の丸の城壁に沿って登ってきます。

二の丸西曲輪(仮に)から一段高く二の丸へ

二の丸

二の丸と三の丸とを隔てる大堀切

大堀切を越えれば数段の曲輪

二の丸の西の大堀切を歩いています。

縄張り図のように南下の武者走りが本丸下まで通じています。

三の丸まで長い曲輪が伸びています。

振り返って見ても長い曲輪です。

西奥に一段高く三の丸です。

城主は北条丹後守の家臣・細越氏とあり、初代・細越備前守道信(細越将監)、二代・細越監物奇光、三代・細越大膳大夫の名があり、三代の時「御館の乱」があり、北条高広と行動を共にし、その後の消息はない。
 この城の最期の城主は、同市内にある矢田城に拠った石口氏であると言うが、石口采女正広宗は「御館の乱」時には主家の北条氏の城代家老の地位にあり、子息達は「石口三兄弟」と言われ徹底して景勝派に抵抗したが、戦後景勝から「忠臣の者共!」と評価され後に景勝の臣下として取り上げられたと伝えられている。
松尾神社に隣接して、南に100mの平地があり、境内地を除いて畑として耕作されていたが、通称「モリ屋敷」が居館と言われている。 サイト「古城祉狂がゆく」より


次回 柏崎市 黒滝城
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細越城②

2016-07-30 18:35:18 | 山城ー越後
本丸西の空堀から南下曲輪へ


本丸を東から見ています。

本丸西下の堀切

堀切を南に下り見上げています。

本丸南下の通路

二の丸、本丸の南下には細長い曲輪で繋いでいます。

一段目の曲輪(南下曲輪 仮に)です。

南下曲輪から本丸と二の丸との堀切を見返しています。

本丸、二の丸から南下に通路が描かれていますが、東側には乱穴と記載されている通りに、3mもある深さの穴が、城壁に沿って等間隔に幾つか掘られています。一つの穴深くに動物の眼の光を見たので、クマではないと思いますが、一応警鐘を鳴らしておきます。

通路をさらに下り

三段の南下第二曲輪

南下通路を東に歩き

壁にある乱穴、食料の保存庫とか、兵の奇襲用のための施設という説があるそうです。いずれにしても、南下曲輪、通路には見どころがあり是非見てもらいたいですが、単独では警鐘をならしたようにお勧めできません。

次回 二の丸から三の丸へ
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細越城

2016-07-29 10:49:45 | 山城ー越後
細越城は新潟県柏崎市細越にあります。
細越城地図
国道353号線の信号野田から地方道25号線で西に向かうと600mくらいで城山トンネルに入ります。ここを抜けて200mくらいに松尾神社があり、この境内から登り道があります。

境内にある俯瞰図と縄張り図

縄張り図

松尾神社

境内左手から登山道

大手虎口

虎口に入って大きな堀切

曲輪

縄張り図は「新潟県の合戦 長岡・柏崎偏」

壕道を登り

折れがあって

大手にこのような瘤があります。武者隠しとでも言うのでしょうか。

大きな城壁があって、大手を監視しています。

本丸、ルートは縄張り図で右手の尾根を登り、本丸に向かう道でした。

次回 二の丸へ
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下仁田城址と城主(下仁田教育委員会発行)②

2016-07-28 19:48:30 | 歴史資料
一、鷹の巣城と支城の吉崎城

吉崎城地図
地図を左にスクロールすれば吉崎公園(鷹の巣城)があり、吉崎城が東を守る支城であったことが伺われます。城址の西に千沢があって、これが鏑川と合流したところの東の山(藤山)が城山です。

この城は桜井丹後守の出城で、家老は桜井右近将監と伝えられている。桜井丹後守は、恐らく鷹の巣城の城代であったと思われる。三河守貞政(鷹の巣城主)は、山の内上杉家の高級被官として常に関東管領上杉憲政の居城である平井城に近い連絡に便利な北武蔵の地へ出張っているので、鷹の巣城にはほとんど帰城することがなく、城代桜井丹後守に、一切任されていたと推定される。吉崎城の方は家老の桜井右近将監が守っていたものであろう。

吉崎城

三河守忠勝は永享十年(1438)には上杉憲実公に仕え、甘楽谷の最奥の本貫の地に鷹の巣城を築城したものと思われるが、吉崎城の築城はそれ以降のことであり、意外に三河守貞政が父通家の後を継いだのは享禄三年(1530)であるから、その頃の築城かと考えられる。
小幡三河守貞政は、天正十年(1582)三月武田氏没落の時、越後上杉景勝を頼って春日山に奔った。貞政は次の代の忠刻(ただとき)が父卒之後天正十一年被春日山とあり、天正十年十月に春日山で没したものと推定される。三河守の北武蔵の地があまりにも小田原北条圏に近すぎたために危機を切り抜けることができず、越後に奔ったものであろう。かくして三河守の後裔は上杉景勝家臣団に編入されることになる。
家老桜井丹後守は武田家滅亡後、西上州に滝川左近将監一益が入り、関東を制覇するが、天正十年六月織田信長の本能寺の変により滝川一益が急遽西上し、その後を北条が上野のほとんどを侵略する。桜井丹後守は、武田から滝川、北条へと支配者に従属して生き延びてきたものであろう。桜井丹後守の没年は不明であるが、恐らく、丹後守以後も鷹の巣城は存続したものと思われる。この城の最後は秀吉の小田原征伐の時、前田利家の率いる北陸道軍の上杉景勝の先鋒、藤田信吉別働隊によって天正十八年(1590)攻略された。天正十八年八月、関東が徳川の支配下になるや廃城になったと推定される。
「南牧村史」によると市川弁財天(大塩沢)の文中に、「宝暦五年(1755)八月、大塩沢市川家六代目清兵衛好数が大坂町奉行桜井丹後守に仕え、帰郷の際に寄進を受けて持ち帰り鎮座したものである。大願主を下仁田町出身の大坂町奉行桜井丹後守政南(まさすけ)とし・・・。」恐らく、吉崎城主・鷹の巣城代桜井丹後守の後裔であろうか。

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柏崎安田城

2016-07-27 20:52:19 | 山城ー越後
柏崎安田城は新潟県柏崎市安田にあります。

柏崎安田城地図
国道252号線の信号安田から西に地方道73号線を進むと600mくらいに安田城址入口の碑があります。

碑が目立ちにくいことから見逃しやすいので注意

入り口から100mくらいで左折し、ここを登ります。

墓地があって、南に登れば二の丸です。

二の丸から坂虎口を登ると本丸

本丸を東から見ています。中央に碑

縄張り図は「古代中世資料」より。本丸は中央の羽を広げた形の曲輪で、その南下の大きな曲輪が二の丸です。

本丸の西側景色、日本海が見えます。

本丸西奥

ユリがきれいで思わずパチリ

本丸西下の大堀切

本丸北側下の通路

西尾根、城壁があり曲輪が確認できます。これを登ると水道施設となってしまい。改変されてしまったようです。

永正四年(1507)八月、房能の養子定実を擁して守護代長尾為景がクーデターを起こした。このとき、守護方に加担する国人たちの数は少なく、房能は抗戦をあきらめ関東に逃れようとしたが、天水において為景軍に追撃され一戦のすえ討死した。越後の戦国時代は、この長尾為景の「下剋上」に始まったといわれる。かくして、定実を名ばかりの守護として戴いた為景が越後の実質的な最高権力者となった。
 その後、房能の兄で関東管領の上杉顕定が越後に攻め込んで為景と定実を駆逐したが、勢力を盛り返した為景は顕定の軍を破り顕定を討ち取った。ここに至って為景と定実の政権は幕府からの承認も得て、本格的な領国支配に乗り出した。しかし、実権は為景の掌中にあり、定実はこのような状況を打破するために実家の上条上杉定憲、柏崎琵琶島城主宇佐見房忠を味方にして為景排斥の挙兵行ったが、為景の前に破れた定実は幽閉の身となった。これにより、為景が越後の最高実力者となりその立場を明確に打ち出し始めた。
 このころ、安田・北条両城の城主を兼ね、安田・北条両氏の惣領職も兼帯していたいた広春は、為景に仕えて春日山の奉行職に列し、常に守護代長尾氏の側近くにあった。永正十七年(1520)、為景は越中守護畠山尚順の要請により、越中の神保慶宗らを討つために春日山城を出陣した。広春も為景に従って出陣し、翌年の正月、越中平定を終えた為景とともに無事越後に凱旋することができた。以後も広春は為景に仕えて、一向宗禁令の制札に奉行の一人として署名するなど、春日山で重きをなした。
 ところで、北条広春と安田広春を別人とするものもあるが、安田・北条両家の広春は同一人物である。また、広春が、越中の陣から家中に送った置文から、広春は生涯子宝には恵まれなかったようだで、子のないまま享禄三年(1530)ごろに死去した。広春のあとは北条城を高広が継ぎ、一方の安田城は景元が継いだ。 武家家伝より



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