山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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最新の政治状況

2017-06-27 13:32:19 | 日記
奢れるものは久しからず。日刊ゲンダイによれば、安倍首相の体調がひどく悪いそうだ。

■深夜にタクシー4台で医師団
 23日に告示された都議選(7月2日投開票)は、安倍首相にとって絶対に負けられない選挙戦だ。大敗すれば一気に求心力が低下する。逆に勝利すれば、「我々は国民に信任された」と加計問題などで攻め立てる野党を蹴散らすことができる。
 ところが安倍首相は、23日の告示日だけでなく、24日の土曜日も、ラストサンデーである25日も街頭に立たなかった。25日は一日中、都内の自宅に閉じこもっている。前回、4年前の都議選は、選挙期間中の大半が外遊中だったのに、告示前を含めて5日間に25カ所も街頭に立っている。様変わりである。
 加計問題が噴出し、安倍首相の応援演説は逆効果という理由もあるようだが、体調が悪化し、ドクターストップがかかっているとみられている。
 9日(金)の深夜0時すぎ、安倍の体調に異変が生じ、慶応病院の主治医が急きょ自宅に駆けつけたことが分かっている。数人の医師が集められたため、隠せないと考えたのか、安倍の秘書も「五十肩がひどくなって診にきてもらった」と、医師に診てもらったことは認めている。政治評論家の本澤二郎氏はこう言う。
「数人で結成された医師団が、タクシー4台に分乗して安倍私邸に駆けつけたと聞いています。政治家は病気を隠すものです。自宅に医者を呼ぶ時も、バレないように1人でコッソリ来てもらう。複数の医者がタクシーで駆けつけたということは、『すぐに来て欲しい』と緊急を要したのでしょう。下痢が止まらなかったという話も流れている。深刻なのは、翌10日、都内のフィットネスクラブに3時間こもっていることです。以前から、安倍首相はこのフィットネスクラブで主治医から診療を受けていると噂されている。もし五十肩がひどかったら、ジムで運動しないでしょう。やはり、体調は深刻だと考えるのが自然です。通常国会を強引に18日に閉じたのも、体調に不安があったからでしょう」


この体調の崩れと連動してか、一強が崩れそうな政治情勢だそうである
都議選のちょうど1か月前に実施された朝日新聞の世論調査によれば、「都議選で投票する政党」の第1位は、都民ファーストの会と自民党が同率(約27%)で首位。これを見た自民党首脳は、顔が青ざめたという。都議選の結果は、都議会自民党の地盤沈下にとどまらないからだ。
「確実に中央政界に波及します。東京を地盤とする衆参の議員は、自分の地元で自民党の都議が敗退した場合、選挙の地盤が揺らぐ恐れがあります。小池さんは早ければ次期衆院選で国政に進出するといわれていますので、“都議選を落とすと国政選挙も危うい”のです」(永田町関係者)
 政治ジャーナリストの角谷浩一氏も「自民党が都議選で敗れると、党内で“安倍降ろし”の声が出る可能性がある」と指摘する。「安倍政権に不満を抱きつつも、民進党には政権を委ねられないと思っている有権者が、“安倍政権とは別の自民党政権ならいいんじゃないか”――そう思い始めているのです」(角谷氏)
 特に自民党が警戒しているのは、安倍首相に近いとされる元TBS記者から暴行を受けたとして、被害女性が検察審査会に審査を申し立てた問題だ。元記者には逮捕状が出たものの、刑事部長(当時)が事件を揉み消した疑いも持たれている。
 こうした苦境を脱するために、官邸は国会の会期延長を断念、加計問題にも区切りをつけるため、文書の存在を認めてみせたのだ。「賛否が分かれていたテロ等準備罪法にも審議の時間を取らず、衆参とも強行採決で“駆け込み成立”させました。これには、党内からも批判の声が上がっていますが、すべては都議選前に国会を終了させ、加計学園問題絡みの追及をかわすためです」(夕刊紙記者)
 “落ち目の三度笠”を叩くのは、永田町の常道。盤石に見えた安倍政権がガタつき始めた今、党内では血生臭い暗闘が開始されたという。驚くべきは、安倍政権の中枢を担ってきた麻生太郎財務相(兼副総理)に離反の動きがあることだ。「麻生さんは、加計学園の獣医学部新設問題では、“獣医師の質の低下を招く”と発言し、安倍官邸と対立しています。麻生氏には新設反対派である獣医師議連会長としての立場もあるのでしょうが、他の“含み”もあるといわれています。彼は、安倍さんが2度目の総理就任した際、“何かあったら俺が引き継ぐ”と約束していたといわれており、再登板に意欲を燃やしていたのです」(自民党関係者) 週刊大衆記事より
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和田城④

2017-06-26 19:27:00 | 山城ー信州
曲輪3へ


前回記事の縄張り図で堀切ク

堀切ケ

東下の腰曲輪

二段目の腰曲輪

曲輪3の城壁を見上げています。

曲輪3

曲輪3の南西下の堀切コ

曲輪3の南西城壁、宮坂氏はここまでで縄張り図は終ります。

さらに南西に歩くと大きな平地があります。

この尾根を南西に登り

土橋があります。和田城はここまで。

次回 中山城

大井氏③

信濃守護代大井氏

 その後、大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。この光長は『四鄰譚薮』にめる光栄に比定されるが、光栄は「大井朝行の甥比田井入道良鑑の子なり」とあり、にわかに同一人物と断定することは危険といえよう。
 光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよんだ。いわゆる「大塔合戦」である。
 合戦は国人方の優勢で、小笠原軍はついに敗れて大塔古要害に逃げ込んだ。光矩は守護小笠原氏の一門として微妙な立場に立たされ、中立を保って途中まで事態を静観していたが、小笠原長秀に危険が迫ると両者の間を調停した。これによって、長秀はかろうじて京都に逃げ帰ることができた。しかし、責任をとらされて信濃守護職を罷免されたことはいうまでもない。 武家家伝より





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和田城③

2017-06-25 16:55:18 | 山城ー信州
南西尾根を歩きます。


堀切

西斜面に竪堀、このようにこの和田城は竪堀をこれでもかというくらいに堀切っています。

南西曲輪2、土塁で囲んである曲輪です。

縄張り図は「信濃の山城と館3」著者宮坂氏は竪堀は正確に描いておりますが、曲輪・堀切は省いていた?のかもしれません。

第二虎口

土橋と堀切
これに付属した東斜面に竪堀

南西尾根第三曲輪

南西尾根を歩き進み

堀切

また尾根を歩くと

堀切、これが縄張り図の左端、曲輪3の入り口です。

本日はここまで

和田城主 大井信定について
小笠原 信定(おがさわら のぶさだ、永正18年(1521年) - 永禄12年1月6日(1569年2月1日))は、戦国時代の武将。府中小笠原家の一族。小笠原長棟の次男。鈴岡城主。子に小笠原長継がいる。兄に小笠原長時。通称は孫次郎、民部大輔。母は浦野氏。
生涯
分家である松尾小笠原家に対抗するため父と兄により派遣され、鈴岡小笠原家を再興し、のちに松尾城に移る。兄の長時が塩尻峠の戦いで武田晴信に敗北した後も、伊那地方に拠り抵抗を続けたが、天文23年(1554年)に武田氏の伊那侵攻に敗れた。兄とともに東海道を上洛して三好氏を頼ってその客将となり、摂津芥川城に滞在する。永禄11年(1568年)、将軍・足利義昭を奉じた織田信長によって芥川城を落城させられた。
永禄12年(1569年)、三好長逸らと共に義昭を本圀寺に襲撃するも(本圀寺の変)、京都の桂川で敗死した。墓所は山城国成恩寺。子の長継は小笠原貞慶・秀政父子に仕えた。ウィキペディアより


鈴岡城
カテゴリ「関東と信州一覧」を参照の事
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和田城②

2017-06-24 10:41:04 | 山城ー信州
南西尾根を歩きます。


大堀切を振り返って見ています。二重堀でした。

尾根を進むと浅い堀切が見えてきました。

堀切が二段見えます。間に曲輪

虎口

堀切

この堀切は東側に竪堀が繋いであります。

二重堀

二重堀の奥にある堀

奥の堀から東に竪堀

尾根を進み

ねじれたような面白い堀切

ここにも竪堀

尾根が続きます。

西南曲輪1(仮に)

堀切

西南尾根はまだ半ばです。以後は次回に

大井氏②
南北朝内乱期の大井氏

 伴野氏が没落すると、小笠原惣領職は京都小笠原氏の長氏に移った。元弘の乱に際して、長氏の子宗長、その子貞宗らは、はじめ幕府軍に加わっていたが、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏の書状によって天皇方に加わった。建武二年(1334)信濃の諏訪氏を中心とする神氏一党が北条高時の遺児時行を擁し、鎌倉に攻め上った。いわゆる「中先代の乱」が起きると、小笠原貞宗は後醍醐天皇から信濃守護に任ぜられ、信濃国内の北条与党の討伐を命じられた。
 北条時行から鎌倉を奪回した足利尊氏は、天皇からの帰京命令に応じずそのまま鎌倉にとどまり、信濃守護の小笠原貞宗に勲功の賞として住吉荘など三ケ所を与えた。このような尊氏の態度に対し、後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定し、新田義貞を大将に命じて東海・東山両道から大軍を発した。小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞らは尊氏方となって、信濃武士を率いて東山道軍を佐久郡大井荘大井城に迎え撃った。当時の大井荘の地頭は行光の子朝行で、同じ小笠原一族という関係からも信濃守護小笠原貞宗に従い、貞宗からもっとも信頼されていた。のちに、朝行の甥にあたる大井甲斐守光長が貞宗の子政長の守護代を勤めており、両者が固い結合をもっていたことがうかがわれる。
 さて、官軍に包囲された大井城は、一万余騎の敵を迎え撃ちよく戦った。足利直義の檄文を受けた小笠原貞宗・村上信貞らも兵をあわせて大井城を救援した。両軍、激しい戦いを展開したが大井城は落城した。大井城を落とした東山道軍は関東平野に出て、新田義貞の東海道軍と呼応して鎌倉へ攻め込もうとした。しかし、義貞軍は箱根竹ノ下の戦いに大敗して総崩れとなり京都に退却してしまった。尊氏軍は義貞軍を追って京都に攻め上り京都を占領した。これに対して後醍醐方の陸奥鎮守府の北畠顕家が攻め上って尊氏軍と戦い、尊氏を京都から追い落とした。敗れた尊氏は九州に落ち、九州南朝方の雄菊池軍と多々良浜に戦い、辛うじてこれを破って戦備を整え直した。そして、九州・四国・中国をその勢力下におさめ、ふたたび京都に兵を進めたのである。
 上洛する尊氏軍は、五月、迎え撃つ新田義貞・楠木正成の軍を兵庫に戦って、摂津湊川に正成を討ち取り義貞を敗走させた。この敗戦により、後醍醐天皇は京都を捨て、比叡山に逃れたが尊氏に降伏、ついには吉野に落ちていった。一方、尊氏は光巌天皇をたてて北朝を樹立し幕府をひらいた。以後、日本全土に南北朝の内乱が続くことになる。この間、大井城合戦に敗れた大井朝行は大井城の復旧をしながら、小笠原貞宗に属して、信濃国内の北条残党の討滅戦に参加していたようだ。武家家伝より


埴原城主と伝わる小笠原貞宗に佐久の大井朝行が属していた。大井氏は和田大井氏・佐久大井氏・長窪大井氏と三家あると言われております。




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和田城

2017-06-23 19:36:23 | 山城ー信州
和田城は長野県長和町和田にあります。

和田城地図

国道142号線の信号役場前から県道178号線に入ります。信定寺(この寺は大井信定の菩提寺)を過ぎて、東へ廻ると大きな碑があり、登り口があります。


信定寺

遠景

和田宿、街道沿いの町並みには中山道の宿場町の面影が残っています。ここで食べたおそばがおいしかったです。

和宮様が宿泊した本陣跡、700円?史料があり見学ができます。

信定寺を過ぎて100mくらい東回りに、この釈迦堂橋の碑があり、この奥に登り道があります。

遊歩道を登って10分くらいで尾根に着き、土橋

曲輪にお堂が建てられています。

中曲輪

宮坂氏はこれを本丸としています。

本丸を南から見ています。右手に東虎口

東虎口を見下ろしています。

本丸南西下の大堀切

大堀切の先は一段の曲輪

この尾根を見て、最初に来たときは戻ってしまいました。ここからとんでもなく長い縄張りが控えていますが次回とします。

大井氏について
大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったという。大井氏の系図については、『小県郡史』『尊卑分脈』『系図纂要』『群書類従』など、各本伝わっているがいずれも史料に照らして正しいものはない。
 大井氏の祖とされる朝光は、承久三年(1221)五月の「承久の乱」に幕府軍に従って、小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、戦後、その功により大井庄を賜ったという。朝光の子光長は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、五代藤原頼嗣、六代宗尊親王の三代に仕えた。七人の男子があり、嫡子時光は大室に、二男光泰は長土呂に住し、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。そして、大井氏の家督は三男の行光が継いだ。
 行光のとき、同じ佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏が「霜月の乱」によって一族誅滅にあうということが起こり、以後、佐久郡は大井一族が繁栄することになった。 武家家伝より



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