山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

猿小屋砦③

2017-04-29 20:06:03 | 山城ー信州
二の丸から本丸へ


二の丸下大堀切

三の丸を振り返って見ています。

二の丸

南尾根を進むと本丸城壁が見えてきます。

本丸

北東の景色、眼下の街道は松本街道で保福寺宿があり。保福寺峠を越えれば青木村から上田市になります。

本丸の南下の尾根

本丸南城壁を見ています。

曲輪6(仮に)

南尾根を進み

堀切

物見
物見から西北の景色
猿小屋砦は小笠原氏の配下の砦であるそうです。北の県道181号線は西に進めば国道143号線に繋がり、刈谷原宿を経て南に進めば松本街道で岡田伊深になります。

次回荒神尾城
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猿小屋砦②

2017-04-28 20:20:13 | 山城ー信州
新聞記事情報
 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(福井市安波賀町)は27日、越前国の戦国大名・朝倉義景(1533~73年)の書状が新たに見つかったと発表した。朝倉氏滅亡の5カ月前に室町幕府の奉公衆で近江国朽木の領主だった朽木元綱に宛てた手紙で、「織田信長と将軍・足利義昭が対立した当時の状況を知ることができる貴重な史料」としている。【岸川弘明】
 昨年5月に県外在住の所蔵者が持ち込み、資料館が調査した。縦11センチ、横36.7センチの紙に書かれ、日付は義景が敦賀に出陣した翌日の1573(元亀4)年3月12日。信長と敵対した義昭が、義景に出兵を要請していた。義景は手紙で「佐々木弥五郎」(朽木元綱)が「公方様」(足利義昭)に従うことを評価。「浅井」(浅井長政)と示し合わせ、「上意」(義昭の意向)を受けて動くと伝えている。
 元綱は1570(元亀元)年に朝倉攻めで退路をふさがれ窮地に陥った信長が敦賀から京都へ戻るのを助けたが、手紙が書かれた当時は義昭の側近として反信長勢力と連携を図っていたことが読み取れるという。
 愛媛大教育学部の川岡勉教授(日本中世史)は「朝倉義景が足利義昭周辺と結び、反信長戦線を固めようとしていた動きが分かる」と話している。
 今回見つかった書状は29日~5月31日に資料館で開かれるテーマ展「朝倉義景の出陣」で公開される。30日と5月5、27日には展示解説がある。問い合わせは資料館(0776・41・2301)。


5月5日は高森町へ
「井伊直虎と直親(亀之丞)」講演会と松岡城跡を歩く会
高森町は大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・井伊直虎のいいなずけであった井伊亀之丞が青少年期を過ごしたゆかりの地です。
その歴史舞台を、静岡大学名誉教授・日本城郭協会理事長で、大河ドラマの時代考証も担当している小和田哲男氏を講師に迎え、講演会と松岡城跡を巡るツアーを行います。
 
講演会
1、日時:平成29年5月5日(金曜日)
 12:30 受付開始
 13:00 青葉の笛ななつ星による篠笛演奏
 13:30 講演会「井伊直虎と直親(亀之丞)」-亀之丞時代の松源寺・松岡城ー
2、場所:高森町福祉センター2階大ホール
3、参加費:無料
4、定員 200名
5、申込み:時の駅(0265-35-7083)または教育委員会事務局(0265-35-9416)までお申し込みください。(先着200名)
 
松岡城跡を歩く会
1、日時:平成29年5月6日(土曜日)
 9:30 開始
2、場所:松源寺集合(駐車場は間が沢下駐車場です。場所は、パンフレットをご覧ください。)
3、内容:中世の伊那谷を代表する段丘の城「松岡城跡」と関連史跡を、全国の城郭を研究されている小和田哲男氏の説明を聞きながら巡ります。
3、参加費:無料
4、定員 50名
5、申込み:時の駅(0265-35-7083)または教育委員会事務局(0265-35-9416)までお申し込みください。
 
講演会・歩く会パンフレット (PDF: 4.2MB)
この記事に関するお問い合わせ先
教育委員会 文化財保護係
電話:0265-35-9416 / ファックス:0265-35-2973
お問い合わせはこちら


この記事は興味を引きます。朽木元網は信長が敦賀から京都へ逃れるときに、義景の側近として連携していたということが分かった。とすれば、朽木氏の支配下にある若狭路をどのように信長は移動したのか、また疑問がわきます

猿小屋砦の曲輪4から3へ

曲輪5から南尾根を進み

曲輪4へ

曲輪4から見返しています。

南に尾根を進み

堀切

堀切の上に曲輪3、その先大きな堀切が口を開けていますが次回とします。

俯瞰図は「信濃の館と山城 4」より

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猿小屋砦

2017-04-27 22:40:28 | 山城ー信州
信州はお気に入りの山城を紹介しています。猿小屋砦は松本市赤怒田にあります。信州ゴールデンキャッスルを目指します。

猿小屋砦地図

国道143号線でバス停矢室から県道181号線に入ります。バス停公民館を過ぎて600mくらいを右折します。

金山沢に沿って市道を進むと、お城のような建物がゴールデンキャッスルです。

この道を進みますが、駐車はできませんので、手前の所に停めて、ここを歩きます。

100mほど歩くと神社があります。

境内から、支尾根に入ります。

山の尾根を200mくらい登ると害獣柵があり、ここを開けて入ると、峰が見えてきます。尾根に着いてさらに西尾根を登ってゆきます。

北側景色、ゴールデンキャッスルが眼下に見えます。

曲輪5の城壁です。

曲輪5の北下にある腰曲輪

北尾根第二腰曲輪

第二腰曲輪から曲輪5を見上げています。

曲輪5

俯瞰図は「信濃の山城と館4 松本・塩尻・筑摩編」
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長野原城⑧

2017-04-26 21:25:33 | 山城ー上州
曲輪11から天狗岩へ

東尾根を進み、峰が見えてきます。これが曲輪11の城壁です。

曲輪11の西城壁

長野原城の特徴で曲輪11は北側に土塁を残しています。おそらく尾根の南を削ってこの曲輪を作っていると思います。

さらに東尾根を進みます。

岩尾根が見えてきました。

天狗岩

南東に見える景色、真田新六郎が守る長野原城の奪回のために敵である岩櫃城の斎藤氏が来るとすれば、東側からですから、ここは物見として最適であると思われます。

碑があります。

天狗岩から見下ろしています。滑落に注意

天狗岩から東に回ると

猫の顔をした岩、ここで城域です。

俯瞰図は「山城探訪 上野編」こんな絵が描ける宮坂氏がうらやましい限りです。

鎌原幸重について
武田氏麾下に属す
 上杉憲政は平井城に逃れたが、天文二十年(1551)、後北条氏の圧迫によって越後の長尾景虎を頼って落ちていった、かくして、枢軸を失った上野の地は乱れるようになり、小豪族は大豪族に併呑されるようになった。当時、吾妻地方における大勢力は岩櫃城主の斎藤氏で、斎藤氏は近隣諸郷を押領し、ついには三原庄も併呑しようとして鎌原氏と争うようになり、ついに鎌原宮内少輔は不本意ながら斎藤氏に従うようになった。
 一方、信濃を征圧した甲斐の武田信玄が、上野に勢力を及ぼすようになると、鎌原氏は信玄に属して斎藤氏の圧迫から逃れようとした。永禄三年(1560)、幸重・重澄父子は、真田幸隆を介して信州平原において信玄に謁見し、その麾下となることを得た。
 以後、鎌原氏は武田氏を後楯として斎藤憲広と抗争したが、斎藤方には同族の羽尾氏が味方するなど、鎌原氏は次第に劣勢に追い込まれていった。永禄五年(1562)、斎藤・羽尾氏らの攻撃を受けた幸重は、鎌原を引き払って一門ことごとく信州佐久郡へ退去した。鎌原氏を受け入れた信玄は、小県郡浦野領内に領地を宛行って武田氏に尽した功に報いた。信州に領地を与えられたとはいえ幸重は、鎌原回復の策謀を練り、ほどなく武田氏・真田氏の支援を得て本領と鎌原城を回復している。
 その後、真田氏に属した幸重は岩櫃の斎藤憲広に対抗した。永禄六年、真田・斎藤両軍の間で戦いが開始されたが、岩櫃城は難攻不落でついに両軍和睦となった。その後、真田幸隆は岩櫃城に調略の手を伸ばし、大野兄弟・斎藤則実らの内応を得ると、ふたたび岩櫃城を攻撃した。ここにさしもの堅塁岩櫃城も落城、城主憲広は越後の上杉謙信を頼って落ちていった。
 かくして、吾妻郡に勢力を振るった斎藤・羽尾氏らは一掃され、吾妻郡は真田幸隆が守護として治めるところとなった。鎌原宮内少輔は岩櫃城代に任ぜられ、真田幸隆の与力として武田信玄の上野侵攻戦に活躍した。 武家家伝より引用
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長野原城⑦

2017-04-25 09:33:17 | 山城ー上州
曲輪9から曲輪10(箱岩城)へ

曲輪9、秋葉社が祭られています。

南側

秋葉山大神、櫓があったのでは?

東尾根を進み、曲輪10へ

堀切

曲輪10の城壁

曲輪10(箱岩城)

曲輪10から東尾根へ

縄張り図でオとされている曲輪、チェーンを外して、その先は

オの曲輪はこの大岩の上にありました。鎖を伝って降りられます。

のどかな長野原町、山裾は無残にも道路工事でずたずたです。

斎藤憲広のライバル、鎌原氏について
鎌原氏の登場
 鎌原氏が拠った三原庄は吾妻郡の西部にある嬬恋村・長野原町・草津町・六合村一帯の地で、三原郷と鎌原郷の二郷より成り立っていた。この二郷は平安時代前期に、海野氏の一族下屋将監幸房の子孫が開拓した土地で、南北朝時代の貞治元年(1361)の下屋氏の譲状によれば、その一族は芦生田・鎌原・下屋・赤羽根・名々越・西窪・万座らに分かれて、それぞれが村の開拓にあたっていたことが知られる。
 鎌倉時代の『吾妻鑑』の仁治二年(1241)の記事によれば、海野幸氏と武田光蓮とが上野国三原庄と信濃国長倉保との境界について争論し、幸氏が勝訴したことが記されている。この記事からも海野氏が鎌倉時代から三原庄と関係が深かったことがうかがわれる。
 その後、鎌原氏は着実に勢力を拡げ、室町時代のはじめごろになると三原庄の地頭となって、吾妻郡西部における第一の豪族に成長した。戦国時代に推移する文明ころ(1469~86)、山内上杉顕定が上野平井城に入って、関東管領となるに及んでその支配下に属した。十五世紀、関東は永享の乱(1438)、享徳の乱(1454)、長尾景春の乱(1476)と戦乱が続き、長享元年(1467)には、山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で長享の乱が展開された。文字通り、戦いの連続で鎌原氏も山内上杉氏に従って戦いの日々に身を置いたものと思われる。 武家家伝より
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