訂正です。ムク台の烽火台は白山城から南1.2kmほどの山頂にあります。南西尾根の先端にある曲輪の窪みも烽火台跡に見えますが、ムク台ではありませんでした。
三の丸へ
南西尾根の大堀切に戻って
本丸西下の横堀から北へ廻れます。
横堀を歩いてゆくと、竪堀が随所にあります。
縄張り図は「甲斐の山城と館」、この規模の山城でこれだけの竪堀をつけるには何か理由があるのでしょうか?
北へ廻って来て三の丸土橋と南虎口
三の丸
珍しい三の丸内に堀があり
この堀が三の丸の東側外の横堀に通じています。
三の丸北側の土橋と北虎口
三の丸を北から見ています。奥の城壁は本丸北城壁
北虎口を北から見返しています。
四の曲輪(三の丸の北にある曲輪 仮に)
三の丸南土橋、ここを登れば本丸ですが次回とします。
青木一重(重直の嫡子)
天文20年(1551年)、青木加賀右衛門重直の長男として美濃国で生まれた。青木氏は美濃の豪族で、土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、どういう経緯か分からないが、一重は父・重直の下を離れて、初め今川氏真に仕えた。新坂(にいさか)の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を賜った。永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した。
元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子・隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて、勇名を轟かせた。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟・重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。天正元年(1573年)、徳川氏を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父・重直を頼った[5]。
丹羽家の家臣として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜された。同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった。天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組[6]の組頭の1人とされた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕。
慶長18年末の父の死に際して遺領(約2,000石)を継ぎ、摂津豊島郡、兎原郡、備中国後月郡、浅口郡、小田郡の5郡、及び伊予国においての所領、併せて1万2,000石となる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では将として城の一角を守備した。12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康の許へ派遣されたところ、京都で返事をするというので随行したが、同地で京都所司代板倉勝重に、「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟・可直[4]を誅殺する」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。その後、二条城に召し出され、家康に再び仕えることになったが、減封はなく、可直に2,000石を分与して1万石とするとされた。また、幕府への配慮からか夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子・正重[7]を、病気を理由に廃嫡し、代わりに弟の可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。
寛永5年(1628年)、死去。享年78。 ウィキペディアより
三の丸へ
南西尾根の大堀切に戻って
本丸西下の横堀から北へ廻れます。
横堀を歩いてゆくと、竪堀が随所にあります。
縄張り図は「甲斐の山城と館」、この規模の山城でこれだけの竪堀をつけるには何か理由があるのでしょうか?
北へ廻って来て三の丸土橋と南虎口
三の丸
珍しい三の丸内に堀があり
この堀が三の丸の東側外の横堀に通じています。
三の丸北側の土橋と北虎口
三の丸を北から見ています。奥の城壁は本丸北城壁
北虎口を北から見返しています。
四の曲輪(三の丸の北にある曲輪 仮に)
三の丸南土橋、ここを登れば本丸ですが次回とします。
青木一重(重直の嫡子)
天文20年(1551年)、青木加賀右衛門重直の長男として美濃国で生まれた。青木氏は美濃の豪族で、土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、どういう経緯か分からないが、一重は父・重直の下を離れて、初め今川氏真に仕えた。新坂(にいさか)の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を賜った。永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した。
元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子・隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて、勇名を轟かせた。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟・重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。天正元年(1573年)、徳川氏を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父・重直を頼った[5]。
丹羽家の家臣として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜された。同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった。天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組[6]の組頭の1人とされた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕。
慶長18年末の父の死に際して遺領(約2,000石)を継ぎ、摂津豊島郡、兎原郡、備中国後月郡、浅口郡、小田郡の5郡、及び伊予国においての所領、併せて1万2,000石となる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では将として城の一角を守備した。12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康の許へ派遣されたところ、京都で返事をするというので随行したが、同地で京都所司代板倉勝重に、「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟・可直[4]を誅殺する」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。その後、二条城に召し出され、家康に再び仕えることになったが、減封はなく、可直に2,000石を分与して1万石とするとされた。また、幕府への配慮からか夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子・正重[7]を、病気を理由に廃嫡し、代わりに弟の可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。
寛永5年(1628年)、死去。享年78。 ウィキペディアより