山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

白山城④

2018-07-31 22:49:12 | 城郭一覧③
訂正です。ムク台の烽火台は白山城から南1.2kmほどの山頂にあります。南西尾根の先端にある曲輪の窪みも烽火台跡に見えますが、ムク台ではありませんでした。

三の丸へ


南西尾根の大堀切に戻って

本丸西下の横堀から北へ廻れます。

横堀を歩いてゆくと、竪堀が随所にあります。

縄張り図は「甲斐の山城と館」、この規模の山城でこれだけの竪堀をつけるには何か理由があるのでしょうか?

北へ廻って来て三の丸土橋と南虎口

三の丸

珍しい三の丸内に堀があり

この堀が三の丸の東側外の横堀に通じています。

三の丸北側の土橋と北虎口

三の丸を北から見ています。奥の城壁は本丸北城壁

北虎口を北から見返しています。

四の曲輪(三の丸の北にある曲輪 仮に)

三の丸南土橋、ここを登れば本丸ですが次回とします。

青木一重(重直の嫡子)
天文20年(1551年)、青木加賀右衛門重直の長男として美濃国で生まれた。青木氏は美濃の豪族で、土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、どういう経緯か分からないが、一重は父・重直の下を離れて、初め今川氏真に仕えた。新坂(にいさか)の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を賜った。永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した。
元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子・隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて、勇名を轟かせた。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援を命じられ、高天神城の守備にあたっていたが、この戦いでは弟・重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。天正元年(1573年)、徳川氏を出奔し、織田信長の家臣である丹羽長秀に仕えていた父・重直を頼った[5]。
丹羽家の家臣として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜された。同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった。天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組[6]の組頭の1人とされた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後も大坂城に出仕。
慶長18年末の父の死に際して遺領(約2,000石)を継ぎ、摂津豊島郡、兎原郡、備中国後月郡、浅口郡、小田郡の5郡、及び伊予国においての所領、併せて1万2,000石となる。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では将として城の一角を守備した。12月、和議交渉が始まって、秀頼からの礼謝使節として駿府の家康の許へ派遣されたところ、京都で返事をするというので随行したが、同地で京都所司代板倉勝重に、「もし大坂に戻れば(家康に近侍していた)弟・可直[4]を誅殺する」と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。このため、元和元年(1615年)の大坂夏の陣には参加しなかった。その後、二条城に召し出され、家康に再び仕えることになったが、減封はなく、可直に2,000石を分与して1万石とするとされた。また、幕府への配慮からか夏の陣で一重の代理で指揮を執っていた養子・正重[7]を、病気を理由に廃嫡し、代わりに弟の可直の子である重兼を迎え、養嗣子とした。
寛永5年(1628年)、死去。享年78。 ウィキペディアより








白山城③

2018-07-30 22:36:56 | 山城ー甲斐
南西尾根へ


二の丸の西に位置する曲輪から南西尾根を歩きます。

南西曲輪から本丸への土橋

土橋を作るための横堀

南西尾根を下り、本丸城壁を見上げています。

南西尾根を歩き

堀切

南西尾根の最頂部

見張り台

ムク台という烽火台

烽火台の先は細尾根

次回 三の丸へ

戦国期の天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、武田勝頼は新府城を退去して家臣・小山田信茂の郡内領へ逃れる途中に、田野(甲州市大和町)において滅亡した。同年6月、本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、甲斐では三河国の徳川家康が新府城を本陣に七里岩台上に布陣し、若神子城に本陣を置く北条氏直と対峙した。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、諏訪口の監視を行った。白山城は天正壬午の乱において修築されていると考えられている。

青木氏について
丹党の青木氏(神奴氏・丹治氏)
武蔵七党の一つ丹党の末裔の一族が、武蔵国入間郡青木の地を領して本貫とし、青木姓を称したといわれる[1]。
戦国時代には、その青木氏の末裔を称する美濃出身の青木重直・青木一重の一族が徳川家康や豊臣秀吉に仕えて出世した。江戸時代には小藩ながら外様大名として摂津麻田を支配し、明治維新後は華族となった。一族には別に旗本となったものもいる。


青木重直
武蔵七党の一つ丹党の末で美濃国に流されたと称する青木氏の一族。ただし重直より前は、諸系図によって内容が異なり、確かではない。
初め土岐頼芸、次いで斎藤道三に仕えた。『信長記』の一部によれば、永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙った刺客の一人だったという[6]。美濃斎藤氏滅亡後は織田氏家臣の丹羽長秀に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参加した[7]。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。
文禄2年(1593年)10月17日、摂津国豊島郡のうちで1,400石を与えられ、文禄4年(1595年)9月21日、菟原郡で360石を加増された[8]。この後に剃髪して浄憲と称し、刑部卿法印に叙された。
慶長18年11月21日(1614年元旦)、大坂で死去した。享年86。
遺領は長男・一重が相続した。 いずれもウィキペディアより

よもやま歴史情報

2018-07-29 23:06:30 | 日記


【図解】近畿の城郭Ⅴ

2018年8月上旬刊行予定
中井均 監修/城郭談話会 編

シリーズ完結! かつてないスケールで描く最新の城館バイブル最終巻!! 
【付録1】既刊5冊の城名総索引
【付録2】関西6府県に所在する全城郭の最新の一覧表を収録!
【図解】近畿の城郭Ⅴ
ISBNコード
978-4-86403-299-5
6,800円(税抜) 7,344円(税込)


井伊家歴代当主の位牌、木像 龍潭寺が特別公開 浜松 (2018/7/23 08:12)

特別公開されている井伊家当主の位牌と木像=浜松市北区引佐町の龍潭寺
 井伊家の菩提(ぼだい)寺である浜松市北区引佐町の龍潭寺内に建つ井伊家御霊屋の建て替え工事に伴い、御霊屋に安置されていた井伊家歴代当主の位牌(いはい)と木像が同寺本堂で特別公開されている。本堂には代々の当主や分家の位牌約50柱が並ぶ。井伊家初代の共保、戦国武将の直政、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公直虎の父である直盛の計3人の木像も展示されている。
 御霊屋は寛保2(1742)年に建てられた井伊家の歴代当主を祭るお堂で、県指定文化財。老朽化が激しく6月から建て替え工事が始まり、工事完了予定の2020年3月まで閉鎖される



登録有形文化財に2件 富岡高御殿 富岡高御殿黒門
2018年7月21日 東京新聞記事

御殿の外観

 国の文化審議会が二十日に答申した登録有形文化財(建造物)に、県内では富岡市七日市の県立富岡高校御殿(旧七日市藩陣屋正殿)と、同高御殿黒門(旧七日市藩陣屋中門)の二件が選ばれた。近く官報告示を経て登録される見通しで、県内の登録有形文化財(建造物)は百二十九カ所の三百三十七件になる。
 県教育委員会や富岡市教委によると、旧七日市藩は戦国大名として知られる前田利家の五男利孝が幕府から拝領し、廃藩置県まで十二代にわたり、藩主を務めた。城は持てず陣屋を築き、今回、現存する藩邸の一部「御殿」と陣屋の中門だった「黒門」が登録対象となった。富岡高の敷地内にあり、現在も同高のシンボルとして親しまれている。
 「御殿建築は、京都府の二条城にある二の丸御殿の各種建物のほか、数例を残すのみで、部分的とはいえ残存していること自体が貴重。江戸時代の陣屋の様相を伝える」と評価された。
御殿の黒門=いずれも富岡市で(県教委提供)

 御殿は一八四三(天保十四)年に再建された正殿の一部で、玄関から御座所に至るまでの広間、板の間、書庫などが残っている。木造平屋で長さ約三十六メートル、幅九メートル余、床面積は約三百六十平方メートル。明治から昭和の学校建設に伴って移築されるなどし、玄関の位置も付け替えられた。
 黒門も一八四三年に再建され、移設などを経て現在地に戻された。細部の意匠に御殿と共通する部分が多いという。
 市教委や富岡高によると、御殿は現在も同高定時制の卒業式で使われ、同高東側にある黒門は生徒が登下校時にくぐるという。地元では、本家の加賀藩前田家の赤門(東京大学赤門)に対して黒門と呼ばれた、といわれている。

白山城②

2018-07-29 22:05:55 | 山城ー甲斐
主郭部に入ります。

坂虎口を登り

再度、大手虎口を見下ろしています。

帯曲輪が北回り

帯曲輪の南回り

大手を登ると

虎口と正面から敵を迎えた曲輪、左に入れば二の丸

二の丸虎口

二の丸、奥には本丸の城壁

二の丸の西側には空堀と二の丸南西曲輪

宮坂氏はこの曲輪を2’としています。右手奥には土橋、本丸へ通じています。

縄張り図は「甲斐の山城と館」上巻

次回 南西尾根から三の丸

白山城の築城と利用
『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川筋に土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆が登場する[5]。『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木氏が領有し、武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられている[6]。後に青木氏から別れた山寺氏が領したという[7]。
一方で中世期の文書や記録史料には白山城に関するものは見られず、もっぱら近世期の地誌類や家譜などに見られる。寛永20年(1643年)『寛永諸家系図伝』、寛政3年(1791年)『寛政重修諸家譜』所載の青木・山寺両氏の家譜においては戦国期に武川衆の青木・山寺両氏が武田氏から「鍋山の砦」の守備を任されたとしている。
『裏見寒話』では、武田八幡宮の南に「鍋山八幡」の存在を記している。『裏見寒話』では「鍋山八幡」を源為朝伝説に付会した説を取り、これは白山神社・為朝神社に比定される可能性が考えられている。
戦国期の天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、武田勝頼は新府城を退去して家臣・小山田信茂の郡内領へ逃れる途中に、田野(甲州市大和町)において滅亡した。同年6月、本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、甲斐では三河国の徳川家康が新府城を本陣に七里岩台上に布陣し、若神子城に本陣を置く北条氏直と対峙した。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、諏訪口の監視を行った。白山城は天正壬午の乱において修築されていると考えられている。
江戸時代初期の寛文年間(1661年-1673年)廃城となった。




白山城

2018-07-28 20:37:46 | 山城ー甲斐
白山城は山梨県韮崎市神山町鍋山にあります。

白山城地図


地方道12号線で神山町の信号を500mほど北に進むと白沢川があり、その脇道に白山城入り口に看板があります。

奥の山が城山です。果樹園の道を西に進んで行きますと水道施設が見えてきます。ここから北回りに進むと白山神社の道があります。このまま西に進んで害獣柵を越えて山に入っても、登れます。(すぐに右手の山に取り付きます。)

白山神社への道

参道(階段には曲輪が沿っているように見えます。)

武田信義の築城との伝承がある。南・北に烽火台があり、烽火台ネットワークの拠点的城郭であるという。

城壁のように見えます、この上が神社です。

白山神社(館があったのでは?)本殿左手から登り道があります。

八ヶ岳、茅ヶ岳山麓の眺望に優れていることから、この方面に烽火台があるのでは?

山に入って15分、虎口が見えてきます。

二段目の虎口

虎口を見下ろしています。武田流の虎口の縄張りです。

これを登れば巧みな縄張りされた白山城の主郭部となりますが次回とします。

武田信義
生涯①
大治3年(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140年)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。
治承4年(1180年)4月、以仁王の令旨に応じ、信濃国伊那郡へ出兵して平家方の菅冠者を討つ。その後、安田義定ら甲斐源氏の一族は甲斐・石和御厨(笛吹市石和町)に集結し、挙兵する(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。その後、駿河国に進出して駿河目代・橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。
その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。そのような中、甲斐源氏の中に分裂が見られ、弟の加賀美遠光とその次男・小笠原長清、信義の子・石和信光は頼朝に接近し安田義定は平家を打ち破って都に進撃する義仲とともに東海道から都に上洛し、その功により「遠江守」の官位を手中にする。やがて源義仲と頼朝が対立関係となると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を選択し、その後も武田軍は源範頼、源義経と共に義仲の追討・一ノ谷の戦い・平家追討山陽道遠征・壇ノ浦の戦いに参加した。ウィキペディアより