山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

矢田城④

2016-08-31 21:21:15 | 山城ー越後
二の丸へ

本丸の説明板

北条毛利氏と安田氏について
毛利氏ら越後の領主たちは為景の越中出兵に動員されて他国での激しい戦いを余儀なくされ、同時に様々な負担を負わされた。広春の妻は、守護役人である大熊政秀に対し借銭を申し入れている。その使途は不明だが、越中出兵によって毛利氏が財政難に陥っていたことをうかがわせる。このような状況は、毛利氏に限られたことではなく、領主たちの為景政権に対する不満は次第に高まっていったのである。  広春の存在は安田・北条両氏の関係を複雑なものにしている。たとえば、北条広春と安
田広春を別人とするものもあるが、安田・北条両家の広春は同一人物である。また、広春には高広・高定らの子があったとする説もあるが、越中の陣から家中に送った置文から、広春は生涯子宝には恵まれなかったようで、子のないまま享禄三年(1530)ごろに死去した。広春の死後、北条は高広が継ぎ、一方の安田は景元が継いだことが知られる。
越後の内乱
 長尾為景は定実を擁しているとはいえ、実権を掌握し一国の仕置きにあたっていた。このような状況にあって、定実が抵抗を試みたが失敗に終わり為景政権は磐石を誇っていた。しかし享禄十三年(1530)、定実の実家である上条上杉氏の当主上条定憲は為景に対して挙兵し越後を二分する大乱となった。この「上条の乱」に際して、毛利若松丸(安田景元)・毛利祖栄(北条輔広)・斎藤定信・本庄房長ら中・下越の諸将が連盟して長尾氏に抗したが、のちに為景と和睦して上条城を攻めた。天文二年(1533)、為景は安田景元に北条輔広と相談して上条城に備えるように命じている。
 天文三年五月、上条定憲と宇佐美定満・長尾房景らが北条城に攻め寄せたが、北条城の北条輔広・高広、そして安田景元は上条勢と激しい攻防戦を展開して為景は北条勢の奮戦に対して激励の書状を送っている。そして、この北条城の攻防戦のころから北条城では輔広に代わって高広が城主となった。この高広と安田城主の景元はともに傍流から入ってそれぞれの家を継いだ人物であり、大江毛利氏の一族同士とはいいながらライバル関係となっていくことになる。武家家伝より



説明版にある袖曲輪

袖曲輪は西では大きく開いています。

本丸西下の大空堀

二の丸(前回記事の縄張り図ではCとされている曲輪、BCDEは鳴海忠夫氏ではなく、「古城祉狂がゆく」ブログ管理者の加筆です。)
三の丸までいかずに戻ってしまったようです。申し訳ないです。

次回 本与板城
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矢田城③

2016-08-30 20:03:10 | 山城ー越後
本丸へ


九段の腰曲輪から南に進むと五段の腰曲輪があります。

④の曲輪の西側の五段の腰曲輪(一番上の腰曲輪)

横堀を登ると

曲輪Eの北下に掘られた横堀

横堀は東先端部で大手と交差します。

交差したところから登ってきました。左手の城壁はEとされる曲輪の東側を歩いています。

また一段上がります。

曲輪④の東側にある曲輪

もう一段登ります。縄張り図では曲輪Dの東側を歩いています。

曲輪Dまで登ってきました。

曲輪Dの奥に見えた、一段高い中曲輪

矢田城、本丸

次回 二の丸から三の丸へ
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矢田城②

2016-08-29 22:10:08 | 山城ー越後
信州・上州の山城はグーグル「山城めぐり biglob」にアクセスしてください。

お墓の尾根

お墓が見える尾根と、この階段上の曲輪は尾根続きであったことが推測されます。つまり、新しくできた道が尾根を分断してしまったようです。この曲輪の右脇に道があります。これが本来の大手であったようです。

階段状の尾根の西下に道がありますが、後世のものと思われます。

階段状の尾根道と、西下の道はここで合流します。

近づいて堀切を見ています。敵を最初に受ける要塞ですので堅固に見えます。

上から堀切を見下ろしています。

縄張り図は「新潟県の合戦 長岡・柏崎偏」鳴海忠夫氏作図

縄張り図でEとされる曲輪

Eの曲輪西下の畝形竪堀

畝形竪堀の西下の腰曲輪

二段目の腰曲輪、縄張り図では九段とあります。

越後北条氏(きたじょうし)は、大江系毛利氏の系統を受け継ぐ日本の氏族。
大江広元から、毛利季光―毛利経光と続く大江毛利氏系があるが、 毛利経光の長男、毛利基親は越後国系毛利氏の祖となり、 毛利経光の四男、毛利時親は安芸国系毛利氏の祖となる。
その後、基親の家系は毛利時元―毛利経高と続き、越後北条氏、安田氏へとさらに枝分かれした。
ただし、時親の家系の毛利貞親の子である毛利道幸から分かれたとされることもある。一時は佐橋庄南条を拠点としたので南条氏と称していたが、のちに北条の地へ拠点を移したので北条氏と呼ばれるようになり、安田に移転した別の一族から安田氏が派生したともされる。越後毛利氏の発生の詳細は不明な点も多い。越後北条氏は大江広元の「広」の字を名に使用している。 ウィキペディアより


次回 本丸へ
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矢田城

2016-08-28 19:43:50 | 山城ー越後
矢田城は新潟県柏崎市矢田にあります。

矢田城地図
国道8号線の信号曽地中から南に地方道73号線を下り、バス停矢田を過ぎてすぐに

矢田城の案内板がありますが、矢印のように進まず。後方に小さな公園と駐車場があります。ここから東に山を入るようにしてください。

公園にある碑、北条毛利氏の城代石口広宗の居城で、御館の乱の時に景勝側に付き戦功を挙げたようです。1582年、越中魚津城で織田軍に包囲され自刃したとのこと

公園から山に入ると、土塁があって

大手虎口は左手に登り、城壁が大手を守っているようです。

東には城壁との間に壕が掘られ、空堀と通路を兼ねたものです。


壕に入ってくると

右下が壕で、左上に

曲輪があります。

土塁が四方を囲んでいますので、曲輪であったことは間違いないと思われます。

この曲輪の東に切岸があり、現在は墓地が続いていますが、二段目の曲輪があったようです。

歩いてきた壕道と付随する墓地を見下ろしています。

道を挟んで、登り口の棒標があります。矢田地区はここから城址としていますが、実際は案内した通りです。

次回 棒標から城内に入ります。
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秋葉山城②

2016-08-27 20:49:51 | 山城ー越後
本丸から東尾根へ

本丸、秋葉神社

南北朝時代に活躍した新田一族の羽川形部の居城と伝承があるそうです。

神社側から(東)西を見ています。

神社本殿裏に小曲輪があって土橋で本丸東曲輪と繋いでいます。

東尾根第一堀切

二の丸(私見)

東尾根第二堀切

三の丸(私見)

東尾根第三堀切

東尾根第四堀切

東尾根第五堀切

東尾根第六堀切

東尾根を登り

櫓があったのか、東尾根橋頭堡

櫓台の先に胸をすくような土橋

土橋の先に沢があり水場

中条越前守について(大井田城本丸にある碑)
中条藤資のあとは嫡子景資が遺領相続を果たし、中条氏家督となった。同年、本庄繁長が謙信に謀叛を企て中条景資にも誘いの密書を送った。景資は密書の封をそのままに謙信に送り届け、謙信の征伐軍に加わって本庄城攻撃に出陣した。以後、謙信に従って越中・関東に出陣したが、天正元年(1573)、働き盛りの四十二歳をもって死去した。景資には男子が無かったため、謙信はその女子に吉江氏から景泰(越前守)を迎えて中条氏を継がせた。
 景泰は剛毅な性格で胆略にもすぐれ、謙信から篤い寵愛を受けた。天正二年、謙信は加賀攻めを行いその陣に景泰も加わった。そして、矢玉を恐れず常に先途を走ったため、謙信は景泰の剛毅が過ちにつながることを憂いて訓戒を与えたが、景泰は承知しなかったため、ついに押し込めとなった。このことは、謙信の景泰に対する思い遣りであり、実父の吉江氏にその深意を書状で書き送ったことが『中条氏家譜』から知られる。武家家伝より


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