山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

国峰城③

2017-01-31 21:00:13 | 山城ー上州
主郭部へ登ってゆきます。

中段まで登ってきますと、東第一曲輪(仮に)、左手の窪みは

東斜面の中央を切り落とす大竪堀。越後の竪堀を想像させます。

大竪堀は斜面を林道近くまで下っており、そして下方では段曲輪によって受けています。この竪堀は以前、薮で覆われて見ることができませんでした。

東第一曲輪、これは、東側を守り、大竪堀から登って来る敵に対する曲輪でもあります。

東第一曲輪の南側から下方へ通じる道があり

下って、二重竪堀が構築されており、これは大竪堀の南に位置しています。これらは何度も言いますが、薮の中にあった遺構です。薮を一切払った国峰城を是非、登って再確認していただきたいものです。

二重竪堀の右手にも竪堀、国峰城の東斜面には多くの防御施設を施していました。

二重竪堀の下方にはやはり長い段曲輪で受けています。

東第一曲輪に戻ってきました。

東第一曲輪から北に回ると、腰曲輪があります。

北に見える旧小幡町

多くの遺構が生まれ変わり、感激しています。次回東第二曲輪から本曲輪へ
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国峰城②

2017-01-30 21:54:31 | 山城ー上州
東尾根へ


林道を作ったために尾根を切り裂いたが、この左手にも遺構があります。

櫓台

東尾根第一堀切

第一曲輪

第二堀切

東尾根を進み

第三堀切

高い峰が現れ

物見と思われる曲輪

東尾根第一堀切から北斜面に下ると

堀切があって、水の手

林道に戻って、南に回ると登り口があります。東側斜面には四つの竪堀が見事に整備され見ることができますが、次回とします。

小幡氏について
家紋は「軍配に七五三笹」。 発祥地・上野に拠った上州小幡氏の系統は早くに二つに分かれたとみられ、小幡右衛門尉と三河守をそれぞれ名乗っている。前者は小幡氏行[1]を祖とし、のち宗家として国峰城を支配した。後者は系図上では小幡次郎重高(行頼の弟)を祖に持つといい[2]、鷲鼻城を本願地とした[3]。ただし戦国期には両家は独自に行動しており、宗家・分家としてのまとまりは無い[2]。
上州小幡氏は室町期に山内上杉氏の被官となっていたとみられるが、上杉憲政が後北条氏に追われて上野を失った際、三河守系は憲政に従い越後に逃れた。三河守系が山内上杉氏に仕えて北武蔵方面に勢力を持っていたため後北条氏に追われることになったとする説もある[2]。その後、小幡三河守は長尾景虎の上杉氏継承に参列するなど上杉方であったが、三河守信尚はのちに武田氏に属することになった。
一方で国峰城の小幡憲重については、後北条方に離反したと考えられてきたが、近年になって程なく後北条氏から武田氏に鞍替えしていたことが判明している。その結果、山内上杉氏の没落と後北条氏の進出後に憲重は武田氏の家臣でありながら後北条氏からも一部所領の安堵を受けると言う関係になった。武田氏帰属の事実は憲重の嫡男は元服後に武田晴信(信玄)の一字から「信実(信貞)」と名乗っている事からも裏付けられる[4][5]。しかし憲重の行動に対して憲政退去後も後北条方につかず抵抗していた箕輪城主長野業正は、小幡一族の小幡景純(あるいは憲重の弟・景定)とその養子・次郎信之[6]を後押しし、憲重の草津温泉滞在中に反乱を起こさせ国峰城を占拠させた[7]、小幡領を上杉方の勢力下に戻してしまった。このため憲重と嫡男・信貞は武田信玄を頼り甲斐に亡命した。信玄はこの亡命を利用し国峰城へ侵攻、景純を討死にさせ、小幡氏は武田氏の西上州侵攻の先鋒となっていく。ウィキペディアより
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国峰城

2017-01-29 22:51:58 | 山城ー上州
国峰城は群馬県甘楽町国峰にあります。

国峰城地図
富岡市内の地方道46号線で南東に下り、信号善慶寺を右折し、600m西に進んで善慶寺原の信号を左折します(案内板あり)

町道を南に900mくらい進み、長禅寺の前に、この案内板があります。

案内板から西の町道から見た城山、左手の峰に本丸、右手に出丸
案内板から西に600mくらいに興厳寺があり、ここから城山は真正面に見えます。寺の家紋は軍配に七五三笹

案内板に戻り、1.5kmくらいの町道を南に進み、沢に沿った細い道を進むとこの案内に着きます。

山道を10分くらいで、この分かれ道になります。奥に進めば北曲輪群、手前に登れば御殿平へ

まず奥の道に進んで、一段目の北曲輪

二段目の北曲輪

三段目の北曲輪、実際は、一段目の曲輪から、もっと左側から曲輪が続いていたようです。

縄張り図は「余湖くんのホームページ」より、御殿平の北側下の曲輪群を上の三段の曲輪で紹介しています。

分かれ道に戻って、登るとすぐに御殿平に着きます。

館はソフトボールのグランドくらいの広さがあります。本丸方面が南に見えます。
御殿平を後にして、まず物見の東尾根に登りますが次回とします。かつて二度ほど国峰城に登りましたが、本丸から出丸の南尾根は笹薮で遺構は全くわからない状態でした。しかし先日登城しましたところ、すべて笹は伐採されて遺構は完全に目にすることができます。まら東斜面の竪堀四本もすべて、見ることが来ます。笹に覆われた国峰城から完全に生まれ変わって整備されています。是非この機会に登ってください。
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小里城③

2017-01-28 09:48:05 | 岐阜の山城
詰め丸の本丸へ

この岩場の上に本丸があります。

二の丸からここに登って来て

二の丸を見下ろしています。

本丸に入り天守台の石垣が見えます。

縄張り図

天守閣北虎口

天守閣前にある説明板

雑然とある石も通路として並べてあったようです。東側は足の踏み場もないほど石がごろごろしています。

南側帯曲輪、ここを西に廻っていけば天守閣の石垣をぐるりと見てゆけます。

縄張り図は「余湖くんのホームページ」より

小里光明について
元亀元年(1572年)12月、兄の小里光次は織田信長に従って武田家の秋山虎繁と戦い、舅の明知城主遠山景行らともども上村合戦で討死したため、光明が家督を継ぐ。
天正2年(1574年)に美濃国内の武田氏の岩村城を攻める拠点として小里城を改修し、池田恒興が城の御番手となった。なお翌年岩村城が落城するとこの工事は中止された。
本能寺の変ののち、美濃国主となった織田信孝に仕えた。信孝は羽柴秀吉と不和となり、多くの東美濃の国人達が降るなか、羽柴方の金山城主森長可と対峙し、翌年に信孝が自害するまで仕えたが、森長可により小里城を落とされ、同地を離れ義兄弟の三河国足助の鈴木信義を頼り、和田姓を名乗って徳川家康に仕え三河国小原に住す。
天文12年、長久手の戦いで嫡男光直が負傷しのちにこれがもとで没している。
天正19年(1591年)に旗本・和田光明として相模国東郡岡田郷(現・神奈川県高座郡寒川町)に領地を宛がわれている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの時、光明の子・光親は小里城に入り、遠山利景・方景父子らとともに明知城を攻めてこれを陥落させ、岩村城を開城させた。
この功によって光親は同年土岐郡の一部と恵那郡の大川村と水上村の旧領3,580石を再び与えられた。
しかし光親の子・光重は嗣子がないまま元和9年(1623年)に亡くなったため、小里氏は断絶した。ウィキペディアより


次回 素晴らしく整備された上州国峰城

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小里城②

2017-01-27 20:02:59 | 岐阜の山城
御殿場から詰め丸に向かいます。

御殿場本丸、奥の幟のある所から詰め丸へ



嫡子が居ないことで、お家断絶となったという。病気の長患いであれば、養子をあらかじめ用意しておくこともできようが、急死であればやむを得ないことか。

本丸を後にして登ってゆきます。

20分ほどの登りで、ここに着きます。

岩でできた虎口を抜けて

岩に登って市街を見ています。

第二虎口

西曲輪(仮に)

こんな岩場を登ってゆき、上部に石積があります。

ようやく二の丸へ

次回 石垣を駆使した本丸へ


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