山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

小倉城

2018-05-31 21:06:06 | 山城ー武州
小倉城は埼玉県ときがわ町田黒にあります。

小倉城地図

国道254号線の信号平沢から菅谷館方面に向かい600m先の信号を右折します(TSUTAYAあり)日枝神社を過ぎて、大福寺に駐車場があり登り道があるようです。私は大福寺の手前に登り道案内を見つけて登りました。(

この案内から南100先に路駐帯があります。

尾根を西に進み段差があります。

壕のような堀があり

第一堀切

第二堀切と二重堀です。

二重堀切を過ぎて、虎口が見えてきます。

東虎口

虎口を守る大手曲輪

桝方に入って、本丸城壁を見ています。

桝方虎口を見返しています。

本丸東虎口

本丸東虎口の南下の大きな本丸南下曲輪

次回 本丸から二の丸へ

小倉城の歴史については不明なことが多いが、『新編武蔵国風土記稿』によれば、城主は遠山右衛門大夫光景であったという。遠山直景は江戸城城代として、佐倉衆との取次ぎなどの任務を果たしていたが、光景もその一族であったのであろう。ただ、この城の北西には「遠山」という地名があるのが少し気になる。これは遠山氏が来たためにできた地名なのか、それとも、もともと遠山氏の発祥の地であるのか、あるいはここの遠山氏は江戸城代の遠山氏とは違い、この地域の土豪であった遠山氏であるのか、判断に迷う所である。「余湖くんのお城のページ」小倉城記事より

磯部城④

2018-05-30 20:01:43 | 山城ー上州
本丸へ

文化財パンフレット『二俣城・鳥羽山城の調査』の販売を開始します。

平成30年に新たに国史跡に加わりました、二俣城・鳥羽山城(天竜区二俣町)にかかわ
る文化財パンフレット『二俣城・鳥羽山城の調査』の販売を下記の通り開始します。



1 書 名 『二俣城・鳥羽山城の調査』
2 販売開始日 平成 30 年 4 月 6 日(金)
4 月 6 日は、しろ(4・6)の日です。同日、続 100 名城に選定された浜松城にお
いてスタンプが設置されます。
3 内 容 浜松市文化財課で 2009 年から実施してきた、発掘調査や史料調査、歴史地理
調査など、各種調査成果の概要を紹介しています。A4版、16 ページ、オール
カラー。平成 29 年 11 月 28 日に販売を開始した『二俣城跡・鳥羽山城跡総合調
査報告書』(既に完売)が好評であったため、同書の内容を一般向けに再構成し
た概要版を作成しました。
[内容]
二俣城・鳥羽山城の位置/二俣三城の歴史/二俣城下町の景観/笹岡城/二俣城/
鳥羽山城/二俣三城の出土品/二俣城・鳥羽山城の近世・近代・現代
4 販売価格 一冊 200 円
5 販売窓口 浜松市文化財課(市役所本庁3階)、浜松市博物館、浜松市地域遺産センター、
天竜区まちづくり推進課(天竜区役所2階)
この他、郵送販売も可能(窓口:文化財課) 販売冊数 1500部


二の丸から本丸に入ります。

本丸東虎口、高土居によって形成されています。

本丸は笹薮に覆われていますが、通路は作っています。なぜ笹薮を残しているのか?

本丸にある田村神社、おそらく田村某が城主であったのかもしれません。

本丸南虎口

中段の腰曲輪へ通じています。(帯曲輪が正しいと思います。)

腰曲輪から双馬出に進み

何故双馬出と名付けられたのか、三の丸の西側から南に出るのと、大きな竪堀に通じる壕が双馬出にあり、この竪堀を使用すれば一気に南に兵を進めることができます。、

三の丸の西側から虎口へ

三の丸西虎口

西虎口から大手へ、横堀が三の丸に容易に登れないようにして、大手も狭くして横堀を巧みに構築しています。このような縄張りは後北条氏の技法と思います。

次回 西上州から離れて、武州ときがわ町田黒 小倉城





磯部城③

2018-05-29 21:45:29 | 山城ー上州
浜松城最新調査
企画展
浜松の文化財2017
企画展「浜松の文化財2017」チラシ(PDF:191KB)
日程 平成30年5月29日(火曜日)~7月13日(金曜日)
会場 浜松市地域遺産センター2階 ガイダンスコーナー
時間 午前9時~午後5時(最終入館:午後4時30分)
休館日 毎週月曜日(臨時休館あり)
内容 市内における文化財の最新トピックスや調査・活動成果を紹介
「二俣城跡及び鳥羽山城跡」(国指定史跡)や明治屋醤油主屋兼店舗・高林家住宅(国登録有形文化財)の紹介
宿蘆寺大澤家墓所(市指定史跡)、宝林寺山門(県指定有形文化財)、瑞雲院鐘楼(市指定有形文化財)、木造達磨大師坐像(県指定有形文化財)の保存修理事業及び民族芸能の保存伝承事業
発掘調査速報展
文化財の防災に向けた取り組みの紹介
認定文化財「浜松地域遺産」の紹介
浜松市地域遺産センター活動報告
申込 不要
観覧料 無料
問合せ 浜松市地域遺産センター 電話:(053)542-3660 Email:maibun@city.hamamatsu.jp
ギャラリートーク
日時 平成30年6月2日(土曜日) 午前10時30分
会場 浜松市地域遺産センター2階 ガイダンスコーナー
講師 太田好治(浜松市文化財課長)
問合せ 浜松市地域遺産センター 電話:(053)542-3660 Email:maibun@city.hamamatsu.jp


東側遺構と東山


二の丸の北側を下って東へ廻ると

東斜面の中段に南北50mもある中段曲輪

東から見て、中段曲輪の城壁

現在はふれあい広場となっていますが、根小屋ではないかと思います。

東斜面にある中段曲輪を南から見ています。

中段曲輪を北に向かって歩きます。中央に段差

段差があって一段高くなります。中段曲輪を北へ歩き

中段曲輪の西には横堀がやはり築いてあります。

中段曲輪は二段の曲輪で下段曲輪

ふれあい広場の東にある山

東山の北側には曲輪と思われる遺構があります。

東山への登り口

現在はいこいの広場とされていますが、長い平地です。私は東曲輪と考えております。

というのは、この平地の北には櫓台のような跡があります。

次回 本丸

佐々木盛綱 ②
平家滅亡後、源頼朝と弟の源義経との間で対立が深まっており、そうした中の文治元年(1185年)10月24日、頼朝は父である源義朝の供養を行い、盛綱もそれに列している。文治2年(1186年)10月24日、甘縄神明神社へ参拝した頼朝に随行する。文治4年(1187年)7月10日、源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年(1190年)8月15日、頼朝の鶴岡八幡宮参拝に随行する。
同年7月20日、頼朝の邸宅での双六の最中に、盛綱の15歳の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち、流血へと至る事件が起きる。信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家を遂げ逃亡し、親子の縁を切ったと述べる。頼朝が盛綱に対し、祐経に対する謝罪を命じると、既に親子の縁を切った事を理由に謝罪を拒否した。
9月から11月、頼朝に従い上洛し、院への参上や石清水八幡宮への参拝などに随行する。建久2年(1191年)10月1日、奥州と越後国より牛15頭を頼朝に贈る。建久3年(1192年)11月15日、永福寺への参拝に随行する。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられる。建久5年(1194年)2月2日、北条泰時の元服式に、11月21日には三島大社の神事による笠懸に加わる。
建久6年(1195年)4月10日、東大寺供養の為に上洛した頼朝の参内に従い、この時には兵衛尉に任じられている。5月20日の四天王寺参拝にも随行している。
頼朝が没した後の建久10年(1199年)3月22日には、出家しており西念と称する。建仁元年(1201年)4月3日、上野国磯部郷に在り、城資盛・坂額御前の反乱の制圧を命じられる。命令は4月5日に西念の下に届き、越後国鳥坂城に構える城資盛を激戦の末に破った(建仁の乱)。牧氏事件では、元久2年(1205年)閏7月26日京に在った平賀朝雅を討つ軍に加わる。
没年月日は不詳であるが、倉敷市に盛綱のものと伝わる墓が残っている。ウィキペディアより





磯部城②

2018-05-28 21:20:59 | 山城ー上州
二の丸から北側遺構


三の丸

三の丸の北側に物見台曲輪の城壁を横堀が囲んでいます。

三の丸の北西に進むと二の丸虎口

二の丸に入り

二の丸南虎口を見下ろしています。

二の丸、奥に見える高土居は本丸城壁です。

二の丸の東側にある物見曲輪、これは二の丸の東側を守る土塁では?

物見台

物見台から二の丸を見渡しています。

物見台の麓にある横堀と三の丸を見下ろしています。

二の丸の北側を下り、北曲輪が受けています。

北第二曲輪、この先に柳瀬川

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

次回 東側遺構から本丸へ

訂正 説明版では佐々木信綱ではなく盛綱でした。
近江国佐々木庄を地盤とする宇多源氏佐々木氏の棟梁である佐々木秀義の三男として生まれる。平治元年(1159年)の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、渋谷重国の庇護を受ける。仁安元年(1166年)、元服して名を盛綱に改める[1]と、16歳で伊豆に流された義朝の遺児・源頼朝の身辺に仕える事となった。
治承4年(1180年)8月6日、平氏打倒を決意した頼朝の私室に一人呼ばれ、挙兵の計画を告げられる。この時に頼朝は「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と述べた。頼朝は他の家人である工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、加藤景廉にも同様の言葉を述べていたが、それでも盛綱は当初から頼朝の信頼が厚かった事が分かる。
8月17日の挙兵の日、兄達が平兼隆の後見で勇士とされた堤信遠を討った後、景廉と共に兼隆の邸宅へと赴きその首を獲った。20日、頼朝に従い相模国へと赴くが石橋山の戦いで敗れる。盛綱兄弟は石橋山で平氏側であった渋谷重国の館に逃れ、重国は喜んで盛綱らを迎え倉庫に隠しもてなした。安房へ逃れていた頼朝が再び兵を集め鎌倉に入ると、盛綱兄弟は再び頼朝の下に参じ、10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に相模国国府で行われた挙兵後初の論功行賞では、旧領の佐々木庄を安堵された。11月4日、常陸国府での佐竹秀義との戦いにも加わる。
寿永元年(1182年)6月7日、由比ヶ浜での酒宴で、酒に酔い倒れた加藤景廉の介抱を行う。10月17日、頼朝の嫡子である源頼家が産所から邸宅に入る際の輿を担いでいる。
元暦元年(1184年)12月、盛綱は平氏追討の為備前国児島に在り、7日には平行盛が率いる五百余騎が篭もる城を攻め落とす。この合戦は藤戸の戦いと呼ばれ、『平家物語』にも描かれており、島に篭もる行盛に対し、漁師から馬でも渡れる浅瀬を聞き出した盛綱が、藤戸の海峡の波を馬で乗り越え先陣を切って攻め入ったとされる。なお地元ではその漁師を口封じの為に殺したと伝わる。それを題材として、謡曲「藤戸」が作られた。①



磯部城

2018-05-27 19:56:02 | 山城ー上州
磯部城は群馬県安中市東上磯部にあります。
磯部城地図

地方道48号線からアクセスする場合には磯部小から西に300m、児童公園の東脇から市道を進み信越化学の会社の東側にある山が磯部城址です。県道217号線からは五賀のバス停から西の二又を右手に進み1.5kmくらいの右手の山です。


城址入口、奥に駐車場有

駐車場にある縄張り図と説明板、磯部は佐々木信綱が所領を持っていたところですが、城址は戦国期のものです。山崎一氏は武田信玄によるものかと推測されていますが、横堀の付け方からすれば後北条氏の可能性もあります。

登り口に入って南口に廻ります。

大きな竪堀、通路でもあり、下方から南周りに犬走があります。

馬出の下にある大きな竪堀

竪堀を見上げています

犬走から南に廻り

本丸南下の腰曲輪を東に歩いてゆきます。

腰曲輪、縄張り図では広く描かれていませんが実際は幅広く感じました。

つつじの小径とある腰曲輪を東に行くと馬出となります。

双馬出とあります。奥の腰曲輪から接続されています。

馬出から南に三の丸


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
佐々木信綱
ささきのぶつな
(1180―1242)

鎌倉前期の武将。定綱(さだつな)の四子。母は新田義重(にったよししげ)の女(むすめ)。通称四郎。1200年(正治2)幕命を受け近江柏原(おうみかしわばら)荘(滋賀県米原(まいばら)市)の住人柏原為永(ためなが)を討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅(ひらがともまさ)を攻め、左近将監(さこんのしょうげん)に任ぜられた。1221年(承久3)に承久(じょうきゅう)の乱が起こると、一族の多くが京方についたにもかかわらず、日ごろ鎌倉に居住していた信綱は北条泰時(やすとき)に従い攻め上がり宇治川の合戦で戦功をあげた。乱後、京方に加わった兄広綱(ひろつな)にかわり近江守護に任ぜられ、1227年(安貞1)佐々木氏の本荘(ほんしょう)である佐々木荘(滋賀県近江八幡(はちまん)市)、堅田(かたた)荘(同大津市)などの地頭職(じとうしき)を与えられた。1234年(文暦1)評定衆(ひょうじょうしゅう)に加わり2年間在職。辞職後にわかに上洛(じょうらく)して出家し虚仮阿(きょかあ)と号し遁世(とんせい)した。[太田順三]


母新田義重の娘の関係から、上州磯部を所領に持ったのかもしれません